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江戸時代の祭頭祭

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記事ID:0050070 更新日:2022年6月24日更新

 江戸時代の祭頭祭については、江戸時代及び明治時代に記された記録からその様相を窺うことができます。

絵図 祭頭祭 昼
(『鹿島志』の挿絵図に描かれた江戸時代の祭頭祭)

神仏混淆の祭の様子

 江戸時代 寛政九年(1795年)成立の書物『廿八社略縁誌』の中では、当番に当たった村の僧侶が、祭頭祭当日を迎えるまでに鹿島神宮へ100日日参したことが書かれています。

『廿八社略縁誌』より

 祭頭祭は、鹿島郡内の六十六の村を左右に分けて、毎年その中から二村が、左方・右方のそれぞれの「大頭(だいとう)」となる。大頭に当たった村は、その村の寺院に鹿島神宮の大神を勧請し、その日から住職は斎戒などを厳重に行い、100日間の間、晴れても雨が降っても遠近を厭わず鹿島神宮にお参りする。これは、天下泰平と年穀成就を祈るためである。(意訳)

 と記されており、鹿島神宮の神様を当番村の寺院にお迎えし、僧侶が神宮に社参するなど、神社(神道)と寺(仏教)が入り混じった神仏混淆の祭の様子が見てとれます。

 また、『廿八社略縁誌』より約30年後になる江戸時代 文政七年(1824年刊)の書物『鹿島志』の中では、

「毎年二月十五日に常楽会という仏教行事が神宮寺にて行われる。これを祭頭と言う。」

 と記載されており、国学者であり鹿島神宮の神官であった『鹿島志』の著者北条時鄰は、祭頭祭が2月15日(旧暦)に神宮寺で行われる「常楽会(じょうらくえ)=祭頭祭」という寺行事であると紹介しています。

 また、祭頭祭の当番に当たることを「御当(みと)がつく」と言いますが、かつては、「左方 大福寺 棚木村」等という形で各村々の寺に御当がつきました。

 明治25年に鹿島神宮から茨城県に提出された報告書「鹿島神宮祭典旧儀取調調書」には、幕末の頃の祭頭祭の様子が記されています。

―その左右の当番村を御当村(ミトウムラ)、寺を御当寺(ミトウデラ)、僧侶を頭人(トウニン)と呼ぶ。(中略)頭人の僧は百日日参を行い、毎日鹿島神宮及び諸末社を巡拝する。(中略)一年間の諸祭典にこの頭人が出席し、様々な例式が行われる。勤めが終わると僧の格式が一段昇進するのだという。(意訳)

 と紹介されており、「頭人(とうにん)=リーダー」となった僧侶が村をまとめ、勤めを終えた後に位が昇進したとも書かれており、僧侶にとっても重要な祭であったことが窺えます。

「夜の祭頭祭」

 『鹿島志』等には、祭頭祭が昼と夜に2回行われていた事が記されています。昼の祭頭は現在と同じように、“思い思いの装束をなし”樫棒を持った男衆が、「樫棒を一箇所に寄せて打ちあい、太鼓をたたき貝を吹いて」囃し立てたと記されています。その様子を『廿八社略縁誌』の中では「古代の悪路王退治のような様」であると表現し、『鹿島志』では「鹿島香取の上古の神軍の様を象ったもの」と表現しています。

 さて、現在は行われていない夜の祭頭はどのようなことが行われていたのでしょうか。

【『鹿島志』に記された夜の祭頭】

 夜になると、また鹿島神宮にお参りする。そして楼門の内に舞台を設置し、正等寺と広徳寺から子ども二人を出して、舞を舞わせる。この時、大豊竹2本を担って、囃子人らが手々に提灯を持ってそれを振り上げ、神宮寺の本堂の四面を巡り歩って囃す。舞を舞う子どもらは正月末日からお寺に籠り、寺から日々鹿島神宮に通って稽古をする。(意訳)

絵図 祭頭祭

 この文章に添えられた「同夜の図 神宮寺」と記された祭頭祭の挿絵図を見ると、画面中央には、神宮寺本堂をとり囲み、威勢よく囃子たてる提灯を持った褌姿の男衆が描かれており、また右下には出店なども描かれて、多くの見物客で賑わっている様子と祭の熱気が伝わってくるようです。
 幕末の鹿島の天狗党騒動、そして明治初期の神仏分離・廃仏毀釈の流れの中で廃寺となって姿を消した神宮寺と共に、いつしかこの夜の祭も行われなくなり、現在では『鹿島志』等の書物類から当時の様子をうかがい知るのみとなってしまいました。

【参考】

「祭頭祭」という名称の由来について

 名称の由来について、この3つの書物にはそれぞれの説が紹介されています。

『廿八社略縁誌』

  • 左方と右方がそれぞれ町内を凱旋する時に、東西に分かれて回り歩くので、「西東祭(= 祭頭祭)」と言われるようになった説。
  • 古くからの様式を残した祭なので「政道祭(=祭頭祭)」と言われるようになった説。

『鹿島志』

 修験の柴燈護摩の「柴燈(さいとう)」からきている説。

「鹿島神宮祭典旧儀取調調書」

 祭頭祭の当番に当たった村の寺(御当寺)の僧侶を「頭人(とうにん)」と呼ぶことから「祭頭祭」という名称になった説。

 以上を見てみると、昔から祭頭祭の名称の由来には諸説あったことが窺えます。


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