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鹿島アントラーズの誕生

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記事ID:0050101 更新日:2021年3月29日更新

昭和の “ 鹿島開発 ” とサッカー

鹿嶋市域では、昭和30~40年代に「鹿島開発」が行われ、様々な企業が操業を開始し、それに伴って鹿嶋へ移り住む人が増えました。この時期、新しく移り住んできた住民と元々からの住民との交流と両者の快い生活環境基盤づくりにいち早く立ち上がったのが、鹿島サッカー協会でした。鹿島サッカー協会は、昭和44年に住友金属のサッカークラブと地元・三菱油化・鹿島石油のサッカークラブが加わって4クラブでスタートしました。当時、鹿嶋ではサッカーは群を抜く人気がありました。

プロリーグへの参加

平成元年(1989年)になると、日本サッカー協会がプロリーグ設立を決定し、鹿嶋では住民と企業と行政が一体となって地域活性化のため「鹿島からプロサッカーチームを送り出そう」と、平成2年6月に住友金属のサッカーチームのプロ正式参加表明を行いました。しかし、当初日本サッカー協会は、競技施設がないことや観客動員数に不安があるとして参加に難色を示していました。

これに対し、鹿島町(現鹿嶋市)大野村(現鹿嶋市)神栖町(現神栖市)波崎町(現神栖市)潮来町(現潮来市)が一体となってホームタウンとなることを表明し、更に平成3年5月にブラジルサッカーのスーパースター・ジーコ氏を招聘するほか、茨城県サッカー協会・近隣町村長・地元企業から要請書を何度も提出し、県知事が「日本発の屋根付き専用スタジアムを建設する」ことを表明しました。また、鹿島臨海工業地帯に操業する多くの企業が「地域発展のために」と支援を決め、大きなサポート体制が整いました。

住民・地元企業・行政が一丸となった地域ぐるみの努力により平成3年2月14日正式参加が認められ、同年7月20日に3,414通の一般公募の中から「鹿島アントラーズ」と名称が決定しました。

平成5年5月4日にカシマサッカースタジアムがオープンし、同年5月15日にJリーグがカシマスタジアム他4ケ所で開幕しました。

20151031ナビスコカップ

“ アントラーズ ” という言葉は、若者ばかりでなく、老若男女そして家族の結びつきを強め、試合会場には多くの年配者の方々も来場しています。

こうした地域一帯の取り組みの中で、平成5年7月7日鹿島アントラーズは、Jリーグ元年のファーストステージで優勝を果たしました。その後も優勝・準優勝ベスト4を積み重ねるチームへと発展しました。

鹿嶋市民に広く親しまれているアントラーズは、市内外の多くのファンやサポーターの熱い応援を背に、現在も快進撃を続けています。

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