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「角折」地名の由来と歴史

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記事ID:0073163 更新日:2023年10月26日更新

角折(つのおれ)の地名の由来

 地名の由来は、奈良時代に編さんされた『常陸国風土記』に次のような記載があります。

 「白鳥の里、以南のあらゆる平原を角折の浜と云う。謂えらく『古大蛇あり、東の浜に通わむとして穴を掘りしに蛇の角折れ落ちきよりて名づく』といへり。或るひと曰へらく、『倭武天皇この浜に停留したまひて、御膳をすゝめ奉りき、時にかって水無かりしかば、即ち鹿の角をとりて地を掘りしに、その角折れければ故に名づく』と云へり」

 この、「大蛇の角が折れた」説と「倭武の天皇(やまとたけるのすめらみこと)の御膳に水が無かったので、鹿の角で地を掘り角が折れた」の2説が元になり、角折の地名がつけられたと推察されます。
 伝承、説話にあたる谷が、台地に入り込み豊富な湧水が見られ、現在はまなす公園として利用されています。ここは、鹿島浦中央部では最も大きな谷で「亀沢またはカメガザワ」と呼称されています。これは以前、亀が観音様を背負い上がってきたと言われることに起因します。観音様は霜水寺(そうすいじ)の本尊です。

角折の歴史

 角折には、湖岸集落からの分村の伝承や記録はありません。また、移住の伝承も存在していません。古くから塩焚きの浜として開けてきたものと考えられています。はまなす公園の展望台建設時の調査では、縄文時代早期の遺跡が検出されています。
 角折が早くから発展した原因はその地形にあると考えられます。鹿島浦のほぼ中央部にあって、谷が深く台地に入り込み、その奥に弁天池があって水をたたえています。池から小川が流れて海に注いでいて、この流れが飲料水となり、水田の灌漑水ともなりました。
 北に「木つけ坂」、南に「塩つけ坂」がありました。木つけ坂は塩焼きの燃料である薪を馬でつけ下した坂であり、塩つけ坂は塩を馬につけて沼尾池の東北岸の「塩釜神社」まで運んだ塩の道です。「文正草子」に伝わる「文太長者」はここから親船に積んで各地に塩を送ったといいます。長者屋敷と伝わる場所は弁天池から流れる小川の南側の海を見下ろす台地上にあり、その北側に霜水寺と西堂(六角堂)がありました。
 「文正草子」が完成したのは室町時代で、角折の村はそれより以前に塩焼きの村として形成されていたと考えられます。室町後期には鹿島氏の一族の林氏の領地でした。
 江戸時代には旗本岩瀬氏(62石1斗7升)・岩手氏(77石5斗8升)の知行地でした。
 寛政11年(1799)1月11日、クジラ漁に出た漁船7隻、人数128人が遭難するという海難事故が起きました。角折村は57人の遭難者を出し、成人男子で生き残ったのは僅かに3人であったと伝えられます。

角折の地図

生産と流通

 亀ガ沢からの湧水を利用して製塩を生業とした室町時代から、漁業、農業へ変化し、農業主体から、近年は第二次産業・第三次産業へと変遷してきました。
 また、製塩を主とした海岸は地引き網漁と共用に変化しましたが、今は行われていません。当時の網元は長重左衛門で、棚木から生井沢仁兵衛等が引きました。その他、小規模なものも2、3ありました。明治時代から大正時代にかけては、北浦側集落の網元もみられました。
 古代の製塩は不明ですが、応安5年(1372)の沙彌本光譲状に「井野並東浜」と塩場に関する記述があることから、この頃には角折の浜で既に塩焚きが行われていたことが窺えます。
 製塩形態は、揚げ浜式の可能性も否定できませんが、海水を煮る「塩焚き」によるものが主流と考えられます。そうした下地の上に『文正草子』が生まれたものと思われます。江戸時代では、文書史料で海岸の割付が見られ、絵図史料から塩釜は6か所認められ、生業としての製塩が考えられます。
 地引網漁との共存関係は不明で、肥料用干鰯との関連性も明らかではありません。
 塩、干鰯をはじめとする海産物を運んだ道が塩の道「塩つけ坂」で、中世頃は、田野辺の塩釜神社下から、船で各地に送ったと言われています。干鰯は棚木の原田河岸に主に下ろしていました。
 水田は、台地下に沖積低地が開けた中世末から江戸時代元禄期(1688~1703)に、初期の水田が開墾され、明治時代に至り現在の耕地が確立しました。
 畑地は、字信の一部、中央部の字忠・弟・孝の大半が、明治時代から戦後にかけて開墾されました。古い畑地は、現在のはまなす公園西側の通称堂西に集中しています。
 戦後、畑地は食糧増産、甘藷の澱粉工業の最盛期を迎えました。澱粉工場は角折製粉、大同東農産加工組合、石山澱粉があり、その他3件が操業しました。
 諸職では、鍛冶屋、五十集屋(いさばや)、船大工、屋根屋、桶屋、酒造り等があり、店は2軒で酒、煙草、呉服、生活用品までを賄いました。その他、旅籠、酒屋等が見られ、一つの小経済圏を呈していましたが、醤油の醸造業はありませんでした。

教育と文化

 江戸時代以前の記録や伝承等はありません。
 明治時代は青塚の第三尋常小学校に通い、大正5年(1916)、荒井に大同東尋常小学校(現在の大同東小学校)が開設され、これに通学しました。昭和36年(1961)に中野東小学校に編入されました。
 お針所または裁縫所は長順三宅にあり、青塚、角折、境田等からのお針子で賑わいました。旧大野村最後のお針所で、昭和40年代まで行われていました。

民族的行事と伝承・伝説

文太長者伝説

 「塩焼き文太」として伝承される物語です。大野村史によれば、その概要は下記の通りです。

「昔、角折に文太という長者があった。文太は鹿島大神宮の宮司家の下男であったが、主家から暇を出されて角折の浜に来て塩焚きをして長者となった。文太には子がなかったので鹿島神宮に願をかけ、2人の女の子を授かった。姉をお蓮といい、妹をお仙といった。2人の娘たちは成長してたぐいまれな美人となり、近隣から嫁に欲しいと申し込まれたが、承諾しなかった。ある時、都から商人に化けてきた人と恋に落ち、都へ行ってしまった。文太もその後を追って京へ上り『朝日さし夕日かがやくこの岡に黄金千ばい二千ばいかな』と歌を残して去っていった。鹿島浦を通る船が角折の沖を通る時、黄金の輝きで目がくらんだという。」

 文太長者の物語は多くの文書に書かれており、とくに有名なのは「御伽草子」の中の第1巻にある「文正草子」で、これが全国に売られ愛読されて塩焼き文太の名は有名になりました。現在のはまなす公園に屋敷跡と伝わる場所が残ります。

鹿嶋市郷土かるたより文太長者

 

 

 

 

 


鹿嶋市郷土かるたより。)

長者団子

 団子を作り子どもたちが近所に配る行事がありました。これは、「文太長者」に子がなく鹿島神宮に子どもが授かるように7日間の祈祷をしたところ、子どもが生まれたので近所に団子を配ったことから始まったと言われます。昭和30年頃まで子どもが生まれると団子を配る風習が残っていました。

鹿島神宮に塩奉納

 文太が京に上る時、鹿島神宮に塩を奉納するように頼んでいったとの事から、戦後まで塩二俵を奉納したといいます。現在は金納として続いています。

文化財と名所・史跡

霜水寺西堂跡

 字忠(はまなす公園の敷地内)に所在し、鹿嶋市指定文化財に指定されています。伝承では「ロッカク堂」と言われます。周囲には上幅2m、高さ2mほどの土塁が、コの字状に巡ります。礎石はほぼ原位置を保ち現存します。「文正草子」の黄金輝く岡のお堂とも考えられています。

一心塚

 字忠に所在。伝承では開墾の途次、人骨が出土し、災難・漁船の遭難が多くなり、祠を建てて供養を重ねたところ、災難は無く慶事が多かったといわれます。一時は夜店まで出て盛んであったといいます。

参考文献

大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日 

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日


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