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東北進出と鹿島神宮

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記事ID:0050038 更新日:2021年3月29日更新

大和朝廷の東北進出

蝦夷(えぞ)とは、大和朝廷から見た東部・北部の原住民の蔑称であり、この時代では東北地方(鎌倉時代以降は北海道)を指しています。

大和地方を根拠としていた大和朝廷は、4~5世紀にかけて九州をはじめ東国に進出し、大化改新などにより天皇を中心とする中央集権国家を建設し、海上から、または陸路の東海道・東山道から東北地方へ進出していきました。『日本書紀』には、斉明4年(658年)に阿部比羅夫(あべのひらふ)が軍船180艘で征討したことが記されています。

蝦夷と鹿島神宮

当時の蝦夷征討は東海道・東山道を経由しての軍事行動が大部分であり、延暦21年(802年)に征夷大将軍 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷制圧するまでの144年間にわたり、朝廷は断続的に東北地方へ軍隊を送り続けました。

そのため常陸国などの街道周辺国の民は租庸調(そようちょう)・雑徭(ぞうよう)・兵役・運脚(うんきゃく)・仕丁(しちょう)などの税負担のほかに出挙(すいこ)の返済、臨時の食物徴用などや、護送中の蝦夷俘囚の反乱に伴う被害などもあり、圧迫された生活を送っていました。

鹿島神宮は、武の神である武甕槌大神を祭神とする「天の大神の社」と地元の神である「坂戸神社」「沼尾神社」で構成されています。蝦夷征討時、征討軍は武神である鹿島神宮の御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を奉じて東北へ進出していきました。そのため、陸奥国には鹿島神宮の分社である鹿島御子(児)神社・鹿島天足和気(あまたらしわけ)神社・鹿島神社など38社が鎮座しています。

阿弖流為(あてるい)との戦い

鹿島神宮の宝物館には「悪路王の首」と題された木製の首が展示されています。この悪路王とは、征討された蝦夷の大将で、蝦夷の英雄、阿弖流為のことだとも言われています。(他には、大陸系の漂着民族オロチョン族の首領であるとの見方もあるようです。)阿弖流為は常に兵力が数倍の朝廷軍と戦いました。

『続日本紀』延暦7年(788年)3月3日の条には、来年3月までに常陸国鹿嶋神饌・武勲のあった者・弓馬に優れたもの集めて、歩兵と騎兵52,800余人を徴発して多賀城に集結せよと桓武天皇の勅命があったことが記されています。

延暦8年(789年)3月に52,800余人が多賀城に集結し、第1回の戦いは副将軍入間広成軍4,000人、阿弖流為軍12,000人で戦い、阿弖流為軍の大勝利に終わります。朝廷軍の戦死者(溺死者を含め)は1,055人だったのに対し、阿弖流為軍は89人でした。その後朝廷軍と阿弖流為軍との間に小競り合いが続きますが、大規模な戦いは無く、6月には朝廷軍が撤退しました。

悪路王の首

『日本紀略』には、延暦13年(794年)に、朝廷軍10万人と阿弖流為軍が戦い、朝廷軍が大勝利したと書かれていますが、阿弖流為軍の損害は軽微で実質的には引き分けでした。

延暦16年(797年)11月に坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された後、次々と懐柔策を行い、阿弖流為を孤立させ、延暦20年(801年)2月に朝廷軍4万人で遠征し、9月には桓武天皇に勝利の報告をし、胆沢城(いさわじょう)を築いています。延暦21年(802年)4月15日、阿弖流為は田村麻呂に降伏し、144年間に渡る蝦夷進出戦争が終わりました。

鹿島神宮の悪路王の首(木製)は、時代を下って江戸時代に奉納されたものです。昭和49年発行の『鹿島町史 第2巻』には、寛文4年(1664年)に奥州の住人、水谷加兵衛満清が奉納したものであると記載されています。奉納の経緯などについては不明ですが、この悪路王の首は、今も境内の宝物館で見学者を険しい顔つきで睨んでいます。

参考文献等

『図説鹿嶋の歴史 原始古代編』『鹿島町史 第2巻』『常陽藝文2005年2月号』

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