ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

戦国時代の鹿嶋

印刷用ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示
記事ID:0050049 更新日:2021年3月29日更新

北浦ー鹿島

戦国時代の鹿嶋を描いた『鹿島治乱記』(かしまちらんき)という軍記物語があります。戦国時代の永正年間末期から大永年間初頭の鹿島城の城主である鹿島氏のお家騒動を描いたもので、鹿島義幹(よしもと)を中心とした物語です。史料的根拠が薄いため、虚構が多いのではないかと言われていますが、鹿嶋を舞台にしたこの軍記物語の内容を短くご紹介します。

まず、その奥書によると成立年代は大永六年(1526)、「漂白隠士」という匿名の人物の筆によると書かれています。この人物の素性は明らかではありませんが、おそらく鹿島義幹ゆかりの者ではないかと言われています。

~『鹿島治乱記』概略~

―君主は舟、家臣は水である。水は舟を乗せるが、また覆しもする。―

鹿島義幹は桓武天皇の末葉の平氏で、兄・鹿島景幹(かげもと)が戦いで討死したことで幼くして鹿島城を継ぐこととなった。家臣たちは幼い義幹を軽くあしらって、所領からの納め分なども自分勝手に納めるようになっていった。

義幹が成長する頃には家臣たちは富貴に慣れていた。成長した義幹は、武勇に優れたが学問をおろそかにし、家臣たちからは恐れられるような人物になっていた。彼に親しみを持つ家臣はいなかったが、そのような義幹の性格を見抜いて取り入った家臣がいた。元浪人の玉造源三である。

【奸臣 玉造源三】

玉造源三は義幹に「貴君が幼かったのをいいことに、鹿島家代々の所領を家臣が私的に押領しています。」と進言した。義幹は確かにそうだと思い、宿老に相談せずに押領の地割を取ってしまった。さらに源三は、代々税が免除されている屋敷にも入って検地を始め、貢納を増やしていった。

ある時源三は「ここは霊社の地、東海道の東で日出づる所、日本の根元の地です。鹿島神宮には貴賤老若問わず日本国中から大勢の参拝者が来ます。そして参拝の次にこの城を見るでしょう。この草ぶきの粗末な外観は見苦しく、貴君の恥ではありませんか?近年領内は豊穣です。今なら人並の城を立てることが出来る経営ができます。」と義幹に提言した。

鹿島神宮の画像

義幹はこの提言に心底納得し、源三に委ねた。そして鹿島郡内の森林から良い木が集められ、神社の神木にまで手をつけて一大土木工事が始まった。工事にあたっては人夫の強要や賄賂横行などの不正も起こった。

【家臣たちのクーデター】

このような状況に対し、小鹿野・吉川・額賀・松本ら鹿島城の四宿老は、密かに集まって「奢侈(しゃし:必要以上の贅沢)がすぎる。」「このような経営のために庶民が憂いている。」と話し合った。そして松本右馬という社家を通じて島崎左金吾という人物から、「玉造源三は邪佞(じゃねい:よこしまでへつらうこと)なる人物で、玉造城主の怒りを買って玉造城から追い出された者だ。」という話を聞き、「悪い城主を廃して、新たに鹿島家を立て、国を治めることは忠臣の志だ」と義幹を廃してしかるべき城主を立てようと秘かに計画するに至った。

宿老らは先代の景幹(かげもと)の娘と鹿島氏の本家である府中(石岡)の大掾忠幹(だいじょうただもと)の弟君を夫婦にして君主として迎えることを計画し、景幹の娘の叔父にあたる水戸の江戸通泰の力も借りることとした。江戸氏には島崎左金吾の族臣・土子を遣わし承諾を得、府中へは鴇田が内通して承諾を得た。

府中が加わったことで、府中の幕下である小高・麻生・手賀・玉造・武田・小川・島名木も加わり、義幹を倒そうと二千名の軍勢が鹿島城に押し寄せ、城に向かって三度鯨波(げいは:戦闘の開始に際し大勢が一斉にあげる大声)を上げた。この時、鹿島城には東の城の城主・右衛門大輔と林左京亮の二人が居り、驚怖する700人余りの老若の鹿島城の家臣を見て「家臣の心も揃わず、城の工事も途中で、敵は思いのほか多勢です。ここはひとまずこの城を出て、東の城に移って総州(千葉県香取郡東庄町)の加勢を頼んでから、御本意に然るべきです。」と義幹に諌言した。義幹は最初「各々逃げてくれ。私はこの城を枕に討死する。」と拒んだが、再三の説得で城を出て東の城へ移った。

クーデターを起こした家臣らは、景幹の娘と大掾忠幹の弟・次郎君を結婚させて鹿島城の相続人とし、城に入った。次郎君は江戸通泰から一字もらって「鹿島通幹」と名乗った。この時から鹿島家は二系統になり互いに正当制を主張し争うこととなった。

【義幹の鹿島城奪還戦】

鹿島城主となった通幹は、初めは城の守りを固めて家臣たちと城の経営にあたっていたが、次第に戦功を過大に誇る松本右馬の振る舞いや横暴、そしてそれを制することができない宿老に耐えかねて、ついに鹿島を捨てて府中(石岡)に帰る準備を内々に始めた。宿老たちはこれを諌めようとしたが、通幹は聞く耳をもたず、宿老らは島崎に相談したが「城主の心に任せるべきだ。」と言われてしまった。宿老らはひそかに部下の人々を呼び「義幹の乱は防ぎ難い。今通幹は府中に帰ってしまった。」と話した。城に忍ばせた忍者によってその様子を知った義幹は、軍勢をまとめて鹿島城奪還戦を開始した。

義幹軍は夜中に海を渡り、明け方に鹿島城に押し寄せて鬨の声(ときのこえ:戦闘の開始に際し大勢が一斉にあげる大声)をあげた。

鹿島城方は各門を固め、義幹軍を引付けてから一斉に矢を放って、先頭の若者らを射落とした。義幹軍が退くと今度は門を開け放ち、鹿島城方の若者たちが鯨波(げいは)を挙げて追いせまった。

義幹方と鹿島城方が入り乱れて戦う中、義幹方の津賀大膳は、あちこちを見まわし鹿島城方の松本備前守を探した。彼を見つけると名を名乗り、互いに駆け寄って、刀の鍔(つば)が割れるほどの激闘を繰り広げ、そして互いに急所に切り込んで同じ枕に討死した。一方、義幹は、引き立てる面々に反撃するだけの味方もなく、大勢に取り込まれて討死した。

義幹の家臣・烟田永源は追いかけてくる敵を切り払い、一町ばかり落ち延びたが、義幹が討たれたと聞くと、肌身に着けたお守りを引きちぎって「母に届けてくれ」と歩兵に頼み、馬を引き返して主君と同じ場所に討死した―…

義幹方の生き残りは、東の城にうち帰り、歳末丸を擁して今に至る。

大永6年暮春 漂白隠士草す。


この物語がどこまで史実かはわかりませんが、宿老・松本備前守と戦ったとされる津賀大膳は、津賀城(鹿嶋市指定史跡 津賀城跡)の城主の津賀氏一族だと言われています。

また、平成4年に発行された『鹿島中世回廊―古文書にたどる頼朝から家康の時代へ―』(鹿島町文化スポーツ振興事業団)には松本政信寄進状という永正十年七月二十九日付の古文書が掲載されています。同書によると“これは鹿島氏の重臣松本政信が亡き君主景幹の菩提を弔うために、鹿島氏の菩提寺である根本寺に寺領を寄進したときのものである。”としています。

あくまで軍記物語は歴史上の人物や合戦を題材にした“作品”ですが、戦国時代の鹿嶋の風景が垣間見えてくるようです。

※東の城…『鹿島中世回廊』では「東庄」と、『文化財だより5』では「粟生城か?」と推測している。

※海…北浦のことだと思われる。『利根川図志』(安政2年(1855)発行)の挿絵図でも現在の北浦の辺りを「鹿嶋の海」と表記している。

―治乱記以降―

治乱記以降の書物にも、この治乱記の登場人物に関わる記述があるものがあります。

1.江戸時代中期『関東古戦録』(『関八州古戦録』)

『関東古戦録』は享保11年(1726)に槙島昭武が著した軍記物語です。その物語の中の天流という剣術の系譜の説明の中で松本備前守が出てきます。

  • 常陸鹿島の住人の松本備前守尚勝が、刺撃の法という流儀を香取郡の郷士長意から授かったこと
  • 松本備前守尚勝が57歳で高天神(高天原のことか?)合戦で討ち死にしたこと
  • そして尚勝が授かった流儀を子の右馬允に伝えたこと

などが書かれています。治乱記では松本備前守の名前は政信でしたが、ここでは尚勝となっています。また松本備前守の子供が右馬だと書かれています。このほか塚原卜伝に関する記載もあり、卜伝が松本備前守の門弟であったとも書かれています。

2.江戸後期『鹿島志』

江戸後期の鹿島神宮の神職・北条時鄰が著した『鹿島志』には、松本備前守と津賀大膳の事が記されています。

「高間の原は古戦場で、大永年間に松本備前守政信と津賀大膳(つがだいぜん)の合戦があり、政信が横槍で突かれて討死した所であるとも言われている。」

とあり、『鹿島志』では二人が戦った場所を高間の原(鹿嶋市高天原)としています。
ちなみに鹿島城跡と高天原は距離があり、近くはありません。 空撮写真で場所を確認する [その他のファイル/266KB]

江戸後期『鹿島志』の画像

3.明治時代『新編常陸国誌』

明治時代に発行された新編常陸国誌の中では、『関東古戦録』と『鹿島治乱記』を引用紹介し、松本備前守の名前を「松本備前守尚勝」と表記し、「高天原合戦で討死した」としています。
このように治乱記以降の軍記物語や地誌などにも、治乱記の登場人物が登場しています。

参考文献:

鹿嶋市教育委員会発行『図説 鹿嶋の歴史 中世・近世編』平成21年発行
鹿島町文化財愛護協会発行『文化財だより 第5号』昭和52年発行
鹿島町文化財愛護協会発行『文化財だより 第7号』昭和54年発行
鹿島町文化スポーツ振興事業団発行『鹿島中世回廊―古文書にたどる頼朝から家康の時代へ―』平成4年発行
あかぎ出版発行『関東古戦録(下巻)』2002年発行
国立国会図書館デジタルコレクション 『群書類聚 第拾四輯』
国立国会図書館デジタルコレクション 『鶯宿雑記 巻百八十七 巻百八十八』
東京国立博物館所蔵『房総治乱記・鹿島治乱記』(多湖実成写 文久3 [1863] 写)

避難所混雑状況