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鹿島信仰と鹿島への旅

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記事ID:0050054 更新日:2021年3月29日更新

鹿島神宮には、神宮で占った吉凶の結果を全国に知らせて歩く「鹿島事触」(かしまのことぶれ)という活動を行っている集団がいました。「鹿島事触」は、鹿島信仰を広げるために、御幣を背負って町々を歩き、踊りを踊って人を集め、御神札を頒布したと言われています。

(神奈川県南西部や静岡県東伊豆地方に伝わる民俗芸能の「鹿島踊」は、鹿嶋に伝わる「鹿島みろく」の歌詞との共通点が見られることなどから、「鹿島事触」が躍った踊りが各地に伝播したものではないかと言われています。(※詳細「鹿島みろく」別ページリンク)

しかし、「鹿島事触」の御札は、言い値で頒布されたため、形だけを真似た偽物が横行するようになります。このような「偽事触れ」は、鹿島神宮の面目を失うものであったので、「鹿島事触」は廃止され、新たに「御師(おし)」が組織されました。

鹿島御師は、江戸・下総・上総・安房に檀家とする領域を持っていて、太々神楽(だいだいかぐら)や配札を主にした講中を組織していました。講中を開くにあたっては、鹿島神宮参拝の趣意書などを用意し、参拝の予定日・日程・諸費用を提示して、鹿嶋への旅の希望者を募りました。御師は、自分の屋敷内に宿泊施設を備えていて、鹿島講中の参拝者を宿泊させていました。

これらの鹿島講の隆盛と相まって、江戸時代後半頃から、鹿島神宮・香取神宮・息栖神社を遊覧・参拝する「東国三社参り」が盛んになり、文人墨客が水郷巡りに訪れるようになります。

松尾芭蕉の『鹿島詣』を参考に、江戸からの鹿嶋への道筋を挙げると、深川の芭蕉庵を出発 → 船で小名木川を下る → 中川を横切って江戸川へ → 行徳に上陸し八幡を経由して鎌ヶ谷原へ → 布佐で休憩→木下(きおろし)へ出て利根川を下る→ 浪逆浦 → 大船津と陸路と水路を織り交ぜた旅だったようです。
これらの旅人は、茶船といわれる屋形仕様の船で遊覧しました。この船は船中泊が可能で、夜半に着いた場合は、河岸に船をつけて夜明けを待ちました。また、参拝は朝4時頃から行われていたようです。

絵図一の鳥居

避難所混雑状況