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筑波山挙兵

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記事ID:0050085 更新日:2021年3月29日更新

天狗党の筑波山挙兵

安政5年(1858年)、朝廷は幕府を通さず、「幕藩改革を促す内容の勅諚」を直接水戸藩に下し、諸藩へ廻達するよう命じました。(「戊午の密勅」)。幕府は勅諚の返納を求めましたが、これに反対を唱え、長岡(現茨城町)に屯集し返納阻止の行動に出たもっとも強硬なグループを尊攘派と言います。

元治元年(1864年)3月この尊攘派が奉勅攘夷を掲げて筑波山に挙兵し、「天狗党」と称しました。挙兵の中心を担ったのは、藤田東湖の子息、小四郎です。小四郎は、藩主に従っての上京経験もあり、長州の尊攘派とも交流し、その信念を強めていました。郷士の竹内百太郎や岩谷敬一郎と共に準備を重ね、町奉行の田丸稲之衛門を総帥とし、挙兵には百数十人が呼応し、数千両の軍資金を蓄えたといいます。攘夷の具体的な目標は、幕府が結んだ日米修好通商条約に基づき安政5年(1858年)開港された “ 横浜港の鎖港 ” でした。

筑波山で挙兵した軍勢は、幕府軍の追討を受け、徳川家康を祀る東照宮を盾にしようと日光へ向かいますが、目論見どおりにはいかず、下野の大平山(栃木県)に滞陣を余儀なくされ、やがて筑波に戻ってきます。

天狗党の中には、横暴な行動に出て本隊から除名された隊もありました。田中愿蔵(たなかげんぞう)の一隊は、焼き討ちなどの強暴な行動に出て、悪評を高め、本隊から除名され、別行動を取るようになります。幕府は、天狗党の取締りを諸藩に指示し、水戸藩も諸生党の計らいで天狗党追討を決定しました。

6~7月には武田耕雲斎ら尊攘派が水戸藩政の主導権を諸生党から奪い返しますが、すでにこの時、追討軍と天狗党の戦いが始まっており、木戸村(現筑西市)の飯田軍蔵らの一隊が追討軍を破るなど各地で奮戦していました。水戸藩は宍戸藩主松平頼徳(まつだいらよりのり)を慶篤の名代として鎮圧を目指しますが(この一隊を大発勢と呼ぶ)、失敗に終わり、幕府は頼徳を死罪に処します。

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