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天狗の鹿嶋落ち

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記事ID:0050088 更新日:2021年3月29日更新

天狗の鹿嶋落ち

筑波山挙兵のほぼ半年後の元治元年(1864年)9月1日に「太平組(おおひらぐみ)」と称す天狗党の一派が、小川(小美玉市)と玉造(行方市)で幕府軍・棚倉藩兵の攻撃を受け、逃れ鹿嶋へ向かいます。追討軍から逃れてきた100名余は、水野勝善(元結城藩家臣)や西岡邦之助・昌木晴雄(まさきはるお)・伊藤益良(いとうますら)を中心とする一隊で、根本寺にいた浪人と合わせて鹿島神宮門前に屯集し、門前の旅館などに分宿しました。この勢力は水戸藩関係者ばかりでなく、他藩の士民が多く含まれていました。9月3日になると、更に棚倉藩の攻撃を受けた数百人が鉾田から鹿嶋へと流れ込んできます。

この様子を、昭和4年に古老の話や神宮社家等に残る文書を元に、郷土史家の織田鐵三郎氏が調べ上げ、『天狗党悲歌 鹿島落』(昭和33年刊行)にまとめています。その内容をかいつまんでご紹介いたします。

『天狗党悲歌 鹿島落』

表紙 天狗党悲歌鹿島落

元治元年(1864年)9月2日の夕刻より、太平組と称する浪人達が、次々と鹿島宮中へ入り、3日までには凡そ600人余りが陣鐘・太鼓・旗指物などを持ち、一隊々々思い思いの軍装で、旅館や寺院、御師(おし)の家にまで溢れていた。

威風凛々とした行装の隊列に、郷人は驚異の目を見張り、それが天狗党の志士である事を知ると驚愕し、色を失った。町内は騒ぎとなり、人々は家財道具を近在へ運んだり、或いは大きな穴を掘って埋め、老人や子供・女性を立ち退かせるなど、戦々恐々たる有様であった。(意訳)

一番隊長は伊藤益荒で135人を引き連れ、うち甲冑騎馬13人・小具足に立烏帽子を被り陣羽織を着た者14~15人、いずれも髪はザンギリで頭で、太鼓を打ち、貝を吹き、火縄銃や鉄砲や鎗(やり)を銘々に携えて、9月2日夕刻に鹿島へ入ってきたと書かれています。

天狗党 旗

上記は、『天狗党悲歌 鹿島落』に掲載されている、浪士達が行軍の際持っていた吹流旗などの一部です。

やがて追討軍も鹿嶋近郷へと隊を進めてきます。鹿嶋に屯集していた一隊はこれを聞きつけ、筑波山挙兵の際に攘夷の具体的な目標としていた横浜鎖港へ向かおうと計画をしたようです。

追討軍が近郷まで攻め寄せて来たというので、天狗党の志士は、馬に跨り右往左往、東西に馳せ警戒を怠りなく行い、「この地において一大決戦の上、勝利すれば、勢に乗じて手薄の小見川を切り抜けて、上総より横浜を襲わん」とした。佐原には佐倉藩、利根川筋より宇都宮藩、一宮藩・麻生藩の諸藩も控えていたため、しばらく情勢を観望しようということになったが、鉾田から船で運ぶ予定だった弾薬を追討軍に奪われてしまった。5日に弾薬を奪われた旨の報告があり、一同は大いに驚いて意気消沈した。

隊長らが話合い「海から漁船に乗り、横浜に向かう」として、町役人に「酒樽30本に水を入れ、味噌2樽・醤油10樽・蓑50枚・草鞋300足」を用立てるよう申し付けたが、用意ができず、町役人は半減を願い出て、申し付けの半分を整えた。

5日昼過ぎに、同勢は平井浜や下津浜その他浦々へ向かったが、この騒ぎに浜の人々は安閑としてはいられず、舟の櫓舵(ろかじ)を残らず抜いて漁師は山の中に隠れてしまった。一同はどうすることもできず、空しく引き揚げ、用意した酒樽や草鞋なども無駄になってしまった。(意訳)

一方、幕府軍と棚倉藩の追討軍は、9月5日に鉾田を出発し、鹿嶋へと向かいます。幕府軍の歩兵隊は、「悉く剣付き銃を携えて、筒袖の襦袢を着、ゆるき股引きを履いて、二尺に足らぬ一刀を横たえ」その出立は西洋風であったと記されています。

町内(鹿嶋宮中)では、兵火を恐れ、諸道具を片付けるなど大騒ぎとなっていました。浪士達は鹿嶋で戦死するつもりでしたが、隊長らは「兵火で神宮神前を汚す」ことを恐れ、追討軍を行方郡で引き受けようと、一同は行方へ向かうことを決意します。

5日夜になると、追討軍は鹿嶋への夜討ちを評議し、町内や根本寺などを攻撃する計画を立てていましたが、天狗党の浪士達は暁までに、行方を目指して大船津へ繰り出していました。最後に出発した7番隊の川俣茂七郎は、愛馬をむざむざ敵手に委ねることを忍びなく思い、惜別の涙を呑んで之を大宮司に贈っています。

朝には、すでに先発隊は大船津から船にのり北浦を航行しており、最後の隊も大船津へ到着しようとしていましたが、これを知らない追討軍は、鹿島神宮へ目がけて砲撃を開始しました。神官たちは畳を立てて弾丸を防ぎましたが、使者を遣わして「天狗党の浪士はすでにここにいない」旨を告げるまで砲撃は続いたといいます。

千早振る神代も聞かず鹿島山 この長月にあられ降るとは(鹿島神宮大宮司 則孝)

宮中に入った追討軍は根本寺に入り、残っていた浪士らとの砲撃を開始します。また、追討軍の別軍は、大掾辺田の台地の上から大船津へ向かって砲撃を開始し、兵隊らが大船津を囲みました。激戦の後、追討の歩兵隊が大船津田町地区の民家に向けて焼玉を打ち、迎え撃つ川俣茂七郎の一隊もまた火を放ったので、田町地区は忽ち燃え上がり、火は河岸の方まで燃え広がって、一の鳥居まで焼いてしまいました。

大船津では、舟は出したが船頭は怖がって逃げてしまった。(中略)大船津の人々は、大掾辺田の高い場所から自分の家に火を付けられるのを震えながら眺めていた。しかしそこへも追討軍の砲撃あって、堪らず「逃げてきてここに居るのだから(撃たないでくれ)。」と頼みにいった。追討軍は砲撃を止め、大掾辺田から水田に下りて砲撃を再開した。(中略)大船津の人々は前々から噂を聞いていたので、大事な道具だけは持ち出してあった。(意訳)

浪士らの乗じた舟は、幕府軍の舟から放たれた巨砲により転覆し、舟中の人々は、水中に飛び込んだり自害したりし、僅かに逃れた人々は、対岸の潮来へと去ります。

鹿嶋では23人が召し捕えられ、下生地区の石橋杭などで打ち首にされました。23名の遺体は、胸と足の所を縄で縛られて、二人がかりで担がれ、大掾辺田の馬捨場へ埋められました。その他、村々で30~40人が捕えられて打ち首になり、そのまま野捨てにされたといいます。

(織田鐵三郎著『天狗党悲歌 鹿島落』より)


大掾辺田には、明治11年(1878)頃に有志により「殉難諸士乃墓」という石碑が建立され、今に残っています。

天狗党の墓

この墓は現在市指定史跡に指定されています。
市指定史跡 天狗党の墓

鹿嶋から逃れた者は、行方方面や府中(石岡市)等方々で諸藩の兵や幕府軍に斬られたり、捕縛されたりしたといいます。また、木内貞五郎や今泉丹次など武田耕雲斎の軍に加わって敦賀で戦死した者もいたようです。

避難所混雑状況