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近代の干拓事業

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記事ID:0050092 更新日:2021年3月29日更新

田谷沼(たやぬま)の干拓

田谷沼は沼尾神社の南にあたり、古代ここは「神代に天から流れてきた水沼」 “ 沼尾の池 ” があったとされる場所です。奈良時代に編纂された『常陸国風土記』によれば、沼尾の池に生える蓮は格別に美味しく、病人にも効能があるとされ、また鮒や鯉も多く棲んでいたとされています。しかし、いつの頃からか葦が生い茂り泥炭地の底なし沼に変わってしまっていました。

そのような状況のもと、明治時代に田谷沼を泥炭から美田に変えようと発奮した若者がいました。鹿島町(現鹿嶋市)神向寺に住む神向寺郁之助とその弟常次郎の兄弟です。郁之助は幼いころから頭脳明晰で、鹿島高等小学校時代は、後に東京商科大学教授となった峰間信吉と学業成績を競ったといいます。

泥沼であった田谷沼を見て郁之助は美田づくりの干拓事業を計画し、明治42年(1909年)に干拓許可を農商務省から得て、富田式暗渠排水法という当時の最新の技術を採用して工事を開始しました。工事は三年余りかかり、兄弟は全私財を投じて大干拓事業を成功させました。田谷沼には、約五十町歩の新しい田ができ、周辺農家の米の増産と経済的繁栄をもたらしました。

現在、須賀地区には、昭和26年に関係者らによって建てられた郁之助の功績を讃える石碑(頌徳碑)が残っています。

田谷沼田園

粟生池(あおういけ)の干拓

鹿嶋市の粟生地区には、かつて粟生池という池がありました。田谷沼干拓と同じ頃、村長の職をなげうって粟生池周辺(粟生・鉢形地区)の干拓事業に打ち込んだ高松村の木滝佐之助という人物がいました。

高松村の中心に位置していた粟生池は、周辺の谷津や沢から自然水を利用し、下流域の粟生・国末・泉川・長栖の用水とする一大貯水池でした。この一帯は、谷津などから湧き出る自然水が停滞する低湿地で、水田は常に滞水していて、農作業は腰までつかっての重労働になり、田植えや稲刈りの時は田下駄や田舟を使用しなければなりませんでした。

そうした状況を見かねた佐之助は明治40年、茨城県から技師を招き、翌41年に認可を得て粟生池から北部の鉢形地区の耕地整理を開始しました。翌年には73町歩余りの整理が完了し、それによって利水の便が良くなり、重労働が軽減され、農道の整理もされました。

この干拓で11町歩あった粟生池は4町歩に縮小され、更に昭和43年から行われた湖岸南部土地改良事業によってすべて埋め立てられ、姿を消しました。

現在、鉢形地区には昭和26年に建立された木滝佐之助の功績を讃えた頌徳碑が残っています。

木滝佐之助公徳碑

鰐川(わにがわ)の干拓

鹿嶋の南端部に鰐川という川があります。この川は「悪龍」すなわち鰐魚(がくぎょ:現代で言うサメかワニのことであろうとされています。)が住んでいて、民衆を悩ませていた場所だという伝説が残っています。鎌倉時代に鹿嶋へ赴いた律宗の僧である忍性(にんしょう)が、鹿島神宮の神木を伐り地蔵菩薩を造ってその鰐を退治したと伝えられています。

かつて鰐川は、谷原地区・長栖地区(鹿嶋市域)、徳島地区(潮来市域)、下幡木地区(神栖市域)等に囲まれた三角形の川でした。北は北浦、南は利根川に通じ、流水面積およそ248町歩、水深は1メートル程度で中央に中洲があり真菰(まこも)や蒲(かば)が生息していました。江戸時代安永期や明治初期頃にも開田を試みた者はいましたが、実現にはいたりませんでした。

大正8年(1919年)政府が「開墾助成法」を制定したこともあり、谷原地区の野口準、下幡木地区の馬場要之助は、念願の鰐川干拓を決意し、周辺の集落の勧誘に着手しました。102名の調印を集め、鰐川の埋め立てを出願し翌9年に許可を得て、大正11年「耕地整理組合」を設立するにいたりました。ところが翌12年に「関東大震災」が起こり、人的被害はなかったものの資金融通が途絶え、工事着工を延期せざるを得ない状況となりました。更に、工事の成否を疑う者が増え埋立権を譲渡しようとする者が相次ぐ事態となりました。

事態がここまでいたってなお野口・馬場の両氏の熱意は冷めることなく、資金の調達と工事の準備に寝食を忘れて奔走し、苦闘すること10年、間組鈴木堅蔵の援助により資金調達に目処がつき、昭和3年(1929年)に地鎮祭を挙行し開墾に着手しました。近隣の下塙地区の台地からトロッコ列車で土砂が運ばれ、築堤工事や排水機の取り付けが行われ、昭和8年に竣工を迎えました。鰐川の大半は水田へと変わり、215町歩の新しい田は地域を潤す良田となりました。

鰐川干拓

現在、鰐川地区には野口・馬場両氏の功績を讃えた「頌徳碑」が残っています。

鰐川 水田等

※1町歩=3000坪=9900平方メートル(おおよそ)

参考文献

『私たちの郷土嗚呼高松村』(高野文男著)
『図説鹿嶋の歴史 近現代編』

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