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一、鹿島の人の言葉遣い(鹿島訛り)を笑う

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記事ID:0064781 更新日:2022年11月1日更新

『櫻齋随筆』より)

 鹿島から京都へやってきた鹿島則孝一行ですが、同行者の一人で大町(現在の鹿嶋市宮中の大町地区)の住人であった高安五郎兵衛は、京言葉の意味を取り違え、現地の人に笑われてしまします。

 方言の意味を取り違える笑い話は現代にも通じるものがありますが、ラジオやテレビもなかった当時は、言葉の意味が通じないことも多かったのでは…と想像できます。

読み下し文

 ​​弘化四年丁未五月廿日、京都御幸町旅人宿松屋吉兵衛方へ着ス。同廿三日、貸座敷業河内屋文四郎方へ引移る。主従四人也。予のほか内田蔀、高安五郎兵衛、木滝弥助各大町の住人。是より先京都の人、井筒屋弥兵衛と云もの鹿島尓下り久敷住居す。河内屋は同人の従弟也。即日蔀と弥助ハ所用あり天他出。予と五郎兵衛在宿尓天、在京中借切り自分賄の支度致し居多る所へ彼の弥兵衛の老母来り。臺所尓天五郎兵衛尓逢ひ、ウチマキは参り志やと問ふ。五郎兵衛、薪ハ未多来ら須と答ふ。媼、薪やでハ御ざりません。オヨネで御座ります。五郎、夫ンナ女は参りませんと答、媼ハ大きに呆れ笑ひ天、困りたる体由ゑ、奥尓阿りて予も余り聞可年、臺所へ立出、白米ハ先刻参りた里と答しかバ、媼も了承して帰りぬ。五郎ハ、ハア白米の事可、夫ン奈らバ米といへばよい尓と、大不平由ゑ、予云。ウチマキとハ、精米のこと也。夫ガ了解せぬ故、オヨネと云ひ多る也。人の名も米と書とヨネと呼ぶ也。ウチマキハ、大和言葉也。其方等を上等客と心得天、大和言葉を遣ふ多る奈らん。以後も心付よと言つ介多り。果ハ大笑也。其後四人共洛内外遊行し天、帰り多る夜、媼来り。今日は唯御草臥尓天、オミヤガ御労奈らんと云。五郎、取敢不案内由ゑ、御土産ハ買須と云。媼、又大笑せり。去ども五郎にハ分らず。媼も気の毒奈る体由ゑ、予ハ長き旅路尓馴多連者、足も労須と云ひ笑ひ多り。媼帰りし後尓、五郎、ナゼ土産を笑ひし奈らんと不審く思ふ体由ゑ、オミヤとハ予ガ足を御足といふ心也と諭し介れバ、夫ン奈らバオアシといへ者、王可るにと又笑ふ。亦或日予ガ繪を画多る処へ媼来りて、辛気くさ起事なさりますと云ふ。五郎、又何ン尓も火へ、く者りハ志ませんと云。居合たる人、皆ドッと笑ふ。去ども五郎尓ハ分ら須。予も此頃ハ懇意尓なりしか者、其席尓て辛気とハ関東で云ふ、面倒奈ること越云ふ也と諭し、又大尓笑ふ。平常ともに質朴尓て、心尓思ふ事ハ何の思慮も無く云ふ由ゑ、後々に者、弥二さん〳〵と言れ多り。又或朝味噌汁の不足したること阿り。五郎汁椀を持天表家に至り、オッチーをワンカ被下と云ふ。居合せし家内一同尓分ら須。何品尓やと聞れ、只オッチー〳〵と云ひ天、終尓解ら須大不興して空しく帰りたり。無程媼来り天気の毒がり侘言せり。予もお可しさ越こらへて、オッチーとハ、御汁の訛り也。亦ワンカとハ、僅の訛り也と云ひ天笑ひ多り。後又予獨座の時、媼の云ふ。旦那様を始め蔀さん、弥助さむの御言葉ハよく聞分りまするガ、五郎兵衛さむの御言葉は兎角分り兼候。御国可違ひ候やと不審する故、予ハ江戸出生、蔀、弥助も鹿島奈れど度々江戸へも出る故、物言よろし。五郎兵衛も同国奈れど世間不見故也と答。​

現代語訳

 弘化四(1847)年五月二十日、京都御幸町(ごこまち)の旅人宿松屋吉兵衛のところに着いた。同二十三日、貸座敷業河内屋文四郎方へ移った。一行は主従四人。私(鹿島則孝)の他に内田蔀(しとみ)、高安五郎兵衛、木滝弥助の三人で、彼らは大町(現在の鹿嶋市宮中大町地区)の住人である。河内屋は、京都から鹿島に下ってきた井筒屋弥兵衛のいとこの家である。

 同日、蔀と弥助は所用があって外出し、私と五郎兵衛が宿に残って台所で賄いの支度をしているときに、弥兵衛の老母がやってきて、五郎兵衛に「ウチマキは来ましたか?」と聞いた。五郎兵衛は、「薪はまだ来ていません。」と答えた。おばあさんは「薪ではありません。オヨネでございます。」と言うので、五郎兵衛は「そんな女は来ていませんよ」と答えた。おばあさんはたいそう呆れたように笑って困っていたので、私も聞きかねて台所へ出て、「白米は先ほど来ましたよ。」と答えたら、おばあさんは承知して帰っていった。

 五郎兵衛は、「はあ、白米の事か。それならば米と言えばいいのに」と大いに不満そうだったので、私が「『ウチマキ』とは精米(しらげごめ)のことだよ。それが伝わらないから、彼女は『オヨネ』と言ったのだろうが、人の名前も『米』と書くと『ヨネ』と呼ぶね。『ウチマキ』は大和言葉だ。お前を上客だと思ったから大和言葉を使ったんだろう。以後気をつけなさい。」と言ったら、大笑いとなった。

 その後、四人で洛内を出歩いて帰ってきた夜、おばあさんがやってきて「今日はくたびれたでしょう。『オミヤ』がお疲れですね。」と言った。五郎兵衛は、「とりあえず不案内なのでお土産は買わなかった。」と言うと、老女はまた大笑いした。でも、五郎兵衛には意味が分からない。おばあさんも気の毒そうだったので、私は「長旅は慣れているので足も疲れませんよ。」と言って笑った。

 おばあさんが帰った後、五郎兵衛は「なぜ土産を笑ったのだろう。」と不思議そうだったので、「『オミヤ』とは、私の足を『御足』(おみあし)と言ってくれたんだよ」と諭したところ、「それなら『オアシ』と言えばわかるのに」とまた笑った。

 またある日に、私が絵を描いていたところへおばあさんがやってきて、「辛気くさいことをなさいますね」と言う。五郎兵衛は「またなんにも火にくべていませんよ」と言った。居合わせた人はみんなドッと笑った。でも、五郎兵衛にはわからない。私もこの頃はおばあさんと仲良くなっていたので、その席で「『辛気』とは関東でいう『面倒なこと』を言うんだよ」と諭して大いに笑った。五郎兵衛はいつも素直で思ったことを何の遠慮もなく言うので、後々には「弥二さん、弥二さん」(「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛)と呼ばれるようになった。

 また、ある朝、味噌汁が足りなかったことがあった。五郎兵衛は、汁椀を持って母屋にやってきて、「『オッチー』を『ワンカ』下さい。」と言ったが、居合わせた家族一同、みんな意味が分からなかった。「何ですか?」と聞かれても、ただ「オッチー、オッチー」と言うだけでついにわからず、ついに諦めて空しく帰ってきた。しばらくして、おばあさんがやってきて気の毒がって謝った。私も可笑しさを堪えながら、「『オッチー』とは、御汁の訛りだよ。あと、『ワンカ』は僅かの訛りだ。」と言って笑った。

 後にまた、私が一人で座っていた時、おばあさんが「旦那様をはじめ、蔀さん、弥助さんのお言葉はよく聞き分けられますが、五郎兵衛さんのお言葉はとにかくわからないです。お国が違うのでしょうか?」と不審がっているので、「私は江戸生まれで、蔀も弥助も鹿島生まれなのだが、たびたび江戸に出るから言葉使いがいいんだ。五郎兵衛も同郷だけど他国を見聞していないからね。」と答えた。


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