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「和」地名の由来と歴史

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記事ID:0072949 更新日:2023年8月21日更新

和(かず)の地名の由来と歴史

 和と呼称する立原・小見・春秋・花の山(離れ山)・塙集落は、明治7年(1874)に合併し和村となり、明治23年(1890)の町村合併で大同村となりました。江戸時代は各々独立して一村を構成していました。『鹿嶋市史 地誌編』では、「以和為貴」(和を以て貴しと為す)が和村の名称の由来としています。和村当時は立原を南坪、小見・春秋を中坪、塙を北坪と称し、今でも名残が残されています。​

和の地図

立原(たちはら)

 立原の地名については、明確な伝承はありません。台地上には弥生時代、古墳時代の遺跡、水田には「二の田・八の田」等の条里制の遺構が残され、古くからの生活の場でした。字名はたつ原からとも取れます。文献的には平安時代の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、中村郷の中に「立原」と記載があります。
 現在の台地上の集落の中央部に「館」という字名があります。ここは鹿島氏に組み込まれた立原氏の館跡です。北方に谷を隔てて「楯の宮」の台地があり、砦跡の遺構が残ります。立原氏は、応永23年(1416)上杉禅宗の乱で禅宗方に味方して敗れ、領地を没収され野に下りました。
 立原集落の草分け伝承としては文禄(1592~1595)八家の「八郎三郎・四郎右衛門・藤次右衛門・五郎兵衛・七郎右衛門・新次郎・市右衛門・彦兵衛」があります。また、慶長(1596~1614)十軒の「藤左衛門・甚九郎・源右衛門・彦四郎・藤七郎・与兵衛・新蔵・源七郎・与三兵衛・藤十郎」が、『大野村の文化』第五集に記載されています。
 江戸時代には旗本村越権右衛門の知行地でした。
 集落は台地上のため、飲料水に困窮しました。斜面部の湧水を利用していましたが、明治年間に4~5軒で共同の井戸を掘り、飲料水を確保しました。

小見(おみ)

 小見は、平安時代の『倭名類聚抄』に中村郷の内に記載されていますが、「小見」の意味するところは定かではなく、伝承もありません。
 集落は散村的な分布を示します。それは、室町時代の春秋館の系譜及び、松本備前守(鹿島氏の宿老)の系譜との関係から、一族の集合集落と推察されます。古墳時代の遺跡は2ヵ所で小規模です。
 小見集落の水田は構造改革事業で新しくなり、字名が「小見一・二・三」と簡素化されましたが、改正以前の字名には「一の田」・「六の田」・「八反田」等の地名が残されていました。これは、大化元年(645)に発せられた大化の改新以降に開田された条里制に由来する呼称です。
 江戸時代は旗本村越権右衛門、成瀬三郎兵衛の知行地でした。
 小見は、幅が狭く細長い土地で、海、川を持たない台地上の集落のため、飲料水の確保に困窮しました。大部分は、台地斜面部に木枠で井戸を造り、天秤棒で担ぎ上げていました。一部は、東側の沼に近い部分に井戸を掘り中水を利用していました。

春秋(はるあき)

 春秋の地名の由来についてはわかっていません。平安時代の『倭名類聚抄』には中村郷の内に記載があります。鎌倉時代の「弘安太田文」では「南条中村内春秋」とあります。古くから「春秋」として成立していました。
 春秋の字「宮の上」からは貝殻や土師器の破片が出土しています。その北側の窪地には「泉神(せんがみ)」という清水湧きの井戸があり、そこへは上から細い道があり、昔飲料水として使用した跡が残っています。また、この道の脇の高台には前方後円墳1基、円墳3基で構成される「春秋古墳群」があります。
 中世には大掾氏の一族の春秋氏がこの地に館を構えていました。集落の西字須賀市に殿山と呼ぶ所があり三方土堤で西は窪地になっています。ここが春秋三郎の居館でした。
 江戸時代には旗本成瀬氏代々の知行地となりました。

離れ山(はなれやま)/現:花の山(はなのやま)

 離れ山は、明治20年代に塙の山本伊兵衛が離れ山に開墾の鋤を入れ、その後安重氏が官有林の開墾に入り、逐次開墾が進んで、集落が形成されるに至りました。戸数・人口が増加し、昭和40年代には15軒ほどになって「花の山」と改称されました。
 「離れ山」の「離れ」は、周辺の集落から離れた所、山の中の意味で呼び慣わしていたものが、地名へと変化して「花の山」に改名して現在に至っています。

塙(はなわ)

 塙は、山のきき出る所の鼻、差し出た所の山の端といわれ、また塙とは埴輪からの転訛ともいわれます。江戸時代以降、和村字北坪と言われた場所が塙の集落です。縄文時代から古墳時代まで、多くの遺跡が見られます。
 応永24年(1417)の大宮司中臣則隆起請文に鼻和村とあります。中世、烟田(かまた)氏の家臣の塙氏が入り、塙館、赤山砦を築きました。
​ 江戸時代は旗本倉橋氏・成瀬氏によって知行されました。
 塙の東、現在の大野出張所の南側には、江戸時代前半頃まで蛭子村がありました。『祭頭祭史料』によれば、常楽会差奉寺名として、「明和二年(1765)蛭子村花蔵院」とあり、同史料に「寛政四年(1792)上塙花蔵院」とあることから、この頃塙村の内になったと考えられます。小字として「蛭子前・蛭子野」が残りますが、字前畑・門畑も蛭子村の範囲内と推察されます。
 台地上の集落では、井戸・飲料水の確保が最大の課題であり、5~10軒程で共同井戸を設置しました。古くは、湧水の近くの台地傾斜部に居住したり天水を溜めたり、沼の周辺に居を構えたりしましたが、明治時代以降、井戸掘り技術の発達によって居住地が拡大しました。また、通称「大井戸」が多数の生活用水を賄いました。

生産と流通

 大字和の内「立原・小見・春秋」は水田を主体とした生産形態で、それに畑作、山林経営が産業基盤でした。江戸時代の石高は、立原は322石1斗3升、小見は205石6升8合、春秋は93石2升5合で、耕作面積的には、戦前まで大きな変化は見られませんでした。
 春秋と塙の境を流れる境川には「枡」が設置され、灌漑用水の配分が行われました。これは、条理制施行時からの水利施設の流れを汲むものと思われ、およそ200町歩の水田を潤しました。
 宅地周辺には、柿や栗、フクレ蜜柑等やお茶、桐、麻等が植えられ、自給自足的経済を心掛けてきた地域でした。
 戦後、農地の基盤整備や北浦への築堤、山林の開墾で農地の面積は、水田・畑地ともほぼ倍増しました。畑地の開墾は、「字明・治・九」を中心に広がり、養蚕、煙草等が栽培されました。林業も盛んで、中でも炭焼きが中心でした。薪や木炭は後河岸(原田河岸)へ運び、各地へ出荷されました。杉の木は建築用材となり、杉皮は屋根葺き用として取引されました。
 「塙」の生産形態は、水田耕作が主体で、寛永9年(1632)の石高は500石6斗6升で、元禄15年(1702)では589石8斗8升とかなり増加が見られます。水田の大部分は、条里制の行われた部分と谷津に沿った水田があります。台地では、雑穀から大小麦、養蚕、菜種や煙草、甘藷の栽培が行われ、特に養蚕が盛んでした。明治時代には「神戸前(ごうどまえ)」の開墾が山本敬作により行われました。
 水田への利水については、分水枡によって「塙」と「小見」に分流し、大野地域唯一の水車精米が、昭和2年頃まで行われていました。
 塙は台地上の集落で、海岸と湖岸に接していないためか、漁業関係の記録はありません。
 その他、澱粉工場は1軒ありました。醸造では酒造りを山本敬作が行っていました。
 林業は振るわず、炭焼きや竹材を販売しましたが、地場産業とはなりませんでした。戦前戦後を通じて、自給自足的経済の集落でした。
 交通と運輸の面では、主要道が集落を南北に貫通し、これに交差する津賀道(現県道)、「蛭子」から「春秋」に至る「蛭子道」、海岸に下る道が、主な生活道であり流通の道でした。

教育と文化

 明治時代初期、立原の東医寺に大同第二小学校が開設され、大正12年に閉校になりました。私塾では、立原大次郎の漢学塾が明治時代にあり、漢学、算盤を教えました。
 塙では、谷田川寿保が文政から嘉永年間(1818~1853)私塾を開きました。明治時代に入って、山本敬作による山本塾が明治38年(1905)までありました。また、昭和に入って、塙中学院が谷謹吾(谷田川寿保の子孫)によって開かれ、谷が35歳の若さで病に倒れるまで7年間続きました。生家入口に「梅江先生の碑」が建てられています。

文化財と名所・史跡

じゃらんぼ遺跡

 大字和字立原に所在。県道鹿島鉾田線、立原の西側の水田中にあります。この付近は昔は泥深い水田で、耕作している農民が難渋したところです。ある時農民の馬(武家の馬という説もあります)が泥田の中にはまり、もがいても抜け出すことができず、ついに絶命したと伝えられ、以降立原地区では、この馬の死を悼み命日の6月15日に「泣きぎおん」を行います。
 この地には如意輪観音石像が建てられており、「延宝6年6月15日、虫供養」と刻まれています。昭和50年7月1日に当時の大野村(現:鹿嶋市)指定文化財に指定されています。

泣きぎおん

 立原には、「日本三大泣き祭り」の一つといわれている「泣きぎおん」が伝承されており、鹿嶋市の無形民俗文化財に指定されています。

槇元稲荷の大槇

 大字和字久保(塙地区)に所在。約500年前に植えられたと伝わる槇で、鹿嶋市指定天然記念物です。

参考文献

大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年4月1日 

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日


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