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惣大行事日記

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記事ID:0068472 更新日:2023年3月22日更新

『惣大行事日記』(そうだいぎょうじにっき)とは

 惣大行事日記は幕末に鹿島惣大行事家(鹿島氏)の当主であった鹿島幹茂―通称・鹿島丹下(かしまたんげ)が記した日記です。惣大行事(そうだいぎょうじ)とは、鹿島神宮の警察担当の神官のことで、鹿島氏が代々世襲していました。
 鹿島丹下は文政5(1822)年2月19日生まれ、天保6(1835)年に数えの15歳で惣大行事職を継ぎます。しかし、天保12(1841)年10月10日、越権につき江戸十里四方追放の罪に問われ免職となり、下総国大寺村(現在の千葉県匝瑳市)へ奇遇します。
 丹下は大寺村で20年余りを過ごしますが、ようやく文久2(1862)年8月23日に鹿島への帰住が許可され、翌文久3(1863)年の日記では惣大行事職への復帰願いの運動が展開されます。
 ここでは、文久3年の日記より、鹿島丹下の復職運動に係わる部分の一部を抜粋してご紹介します。​

目次

1.文久3年4月 上郷・下郷の旧家臣へ挨拶回り​(4月9日・13日・14日)

2.文久3年4月 下総国の旧家臣・親戚・縁者へ挨拶回り(4月22日~25日)

3.文久3年5月26日 藤四郎祢宜が幕府への使者に内定 

4.文久3年6月21日 藤四郎祢宜、鹿島を出立 (6月10日・18日・19日・21日)

​5.文久3年7月~8月 飛脚吾助と御師作太夫の報告 (7月2日・15日・19日・8月14日・24日)

6.文久3年9月14日 藤四郎祢宜、帰鹿

7.文久3年9月23日 藤四郎祢宜、再度出府(9月15日・16日・19日・20日・21日・23日)

8.文久3年10月22日 上郷・下郷の旧家臣寄合(10月20日・22日・23日・24日・25日)​

9.文久3年12月25日 江戸より吉報が届く (12月24日・25日・26日)

 ※紹介するにあたって便宜上タイトルをつけています。

出典

「鹿島町の文化財第六十八集 惣大行事日記(文久三年)」 平成2年3月31日 鹿島歴史研究会 編

鹿島惣大行事家(鹿島氏)について

 この日記の著者、鹿島丹下の祖は、常陸大掾平氏で鎮守府将軍の平国香です。その子貞盛は平将門を破って、常陸国の支配権を獲得しました。彼の子孫で鹿島の地頭となった三郎成幹が鹿島氏の祖です。その子鹿島政幹が養和元年(1182)に源頼朝から鹿島神宮の惣追捕使(そうついぶし)に任命されます。のち正平23年(1368)鹿島幹重の時に惣大行事と名称を改め、その後鹿島氏が世襲しました。

 鹿島氏は、戦国時代の末期、天正19(1591)年に佐竹氏によって鹿島城もろとも滅ぼされてしまいますが、関ケ原の合戦の後、佐竹氏が秋田へ国替えになると、徳川家康は鹿島城落城の際に下総に逃れていた遺児伊勢寿丸に鹿島家を再興させます。鹿島家は徳川幕府から200石を給せられ、鹿島神領三支配の一人となり神領を治めました。

 鹿島氏の旧家臣たちの多くも鹿島郡内地縁の所へ移り住みます。これらの家臣たちは帰農するかたわら、在地の知行主の支配を受けながらも、年賀や流鏑馬等への奉仕に努め、旧主家への忠勤は長く続きます。惣大行事自身も一年おきに上郷(郡内北部)回り、下郷(郡内南部)回りという、旧家臣への見舞いを行っていることは、中世以来の絆の深さを物語るものです。惣大行事日記でも、旧家臣たちが作者鹿島丹下の大きな後ろ盾となります。

 ※中世の鹿島氏についてはデジタル博物館の下記の記事でも詳しく解説しています。

参考文献

  • 「鹿島町史 第1巻」 昭和47年3月31日発行 鹿島町史編さん委員会 編
  • 「図説 鹿嶋の歴史 中世・近世編」平成21年3月31日 財団法人鹿嶋市文化スポーツ振興事業団 編
  • 「マンガ かしまの歴史1 鹿島氏 ―名門の栄光と悲劇―」令和3年3月31日 公益財団法人鹿嶋文化スポーツ振興事業団 鹿嶋市どきどきセンター 編​
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