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「中」地名の由来と歴史

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記事ID:0075253 更新日:2024年1月4日更新

中(なか)・居合(いあい)の地名の由来

 大字中は本郷である標高38m前後の台地上の集落と、標高3mほどの大字奈良毛との境から北浦湖岸縁の標高1m前後の微高地にある「居合」の集落から成ります。

 大字中の地名の由来は、『大野村史』によると、中は平安時代の中期に編さんされた『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に記された鹿島郡十八郷名のうち「中村郷」の本郷で、「古くから『中村』を称した村であり、そのまま地名になったものであろう」とあります。
 また、『鹿嶋市史 地誌編』には、「北浦を望む台地上の中郷に発達した村であることから命名されたものと思われ、鹿島神宮神楽太夫『中村祢宜(なかむらねぎ)』の居住地でもある。神楽大夫の多くは、鉾田・中居・志崎・武井・津賀と居住する村(鎮守社の祀官を兼ねた)を冠することからも、本集落は、中世『ナカムラ(中村)』と呼称され、近世『中』と記載されるに至ったものと考えられる。」と考察されています。

居合

 字「居合」は、『鹿嶋市史 地誌編』に「南西に隣接する大字奈良毛と北西に隣接する大字棚木の飛び地水田との間、北浦湖岸縁に入り合った分村集落であることから命名されたものと思われる」とあります。中から居合に下る坂道は「いやいば坂」といって、字「居合間」と字「居合山」の間を通る坂道なのでその名がついたといわれています。

中の地図

中・居合の歴史

 縄文時代の遺跡の中村貝塚は、椿神社の南東に広がる台地上に位置し、北浦側から入る中村南谷津と棚木方面から入り込む谷津の最奥部にあたります。縄文土器片や石器を多く出土し、縄文後期の住居跡とみられます。その周辺の大津茂台地に至るまで多くの石器、土器片が出土するので、この一帯は縄文中期・後期の住居跡だったと推定されます。
 字前野の前野古墳群には、前方後円墳・円墳があり、その南の字小屋代から鶴来にかけての奈良毛古墳群にも前方後円墳と円墳が散在します。奈良毛古墳群はかつては小屋代古墳群と呼ばれ、『大野村史』によると、前方後円墳からは昭和初期に人物埴輪が出土しました(現在は後円部が削平されてしまい方形状になっています)。字小屋代からは多くの土師器片が出土し、字烏山からは弥生式土器片も見つかっており、この付近一帯は古代の住居跡と考えられます。字居合山・字小山平からも縄文土器片が出土し、ここにも多くの古墳があります(居合山古墳群)。
​ 中村は平安時代の『倭名類聚抄』に記された鹿島郡十八郷の本郷です。当時の中村郷の範囲は『大野村史』によれば、小見、春秋、林、猿田、爪木地域の御手洗川までを称しました。鎌倉時代の『弘安太田文』では、「南条中村郷」とあります。
 中世、大掾氏の一族、林六郎左衛門(城主)の第二子重頼が館を構えて中村氏を称しました(中村氏系図では重頼は中村氏の養子となっています)。その居館は丸屋形崎にあったといいます(『中村文書』)。明地野館は袴塚主計の住居とされます。
 江戸時代には旗本小宮山氏・村越氏・河内氏・鈴木氏による併給知行地でした。
 江戸末期の慶応4年(明治元年=1868)、江戸城総攻撃開始直前、旗本河内氏の奥方が難を避けて中村にしばらく逗留していました。

 居合の水田は碁盤の目のように区画整理されていて、たて、よこ60間が1区画で、細長い約1反歩の田が10枚あることから、奈良時代に行われた条里制の跡だと言われています。それを裏付けるものとして、居合の水田には「一ノ田」「二ノ田」「八ノ田」の数詞の小字名が残っています。
 居合の集落がいつ頃形成されたかは明らかではありません。居合村の村名が出るのは江戸時代中期の寛延年間(1748-1751)で、瑞雲寺(現在の鹿嶋市)の石塔に「居合村、根本氏」の文字が刻まれています。しかし、住居が北浦の浜辺に建てられたのはもっと古く、記録に残っているのは『栗山氏系図』で「嘉永元年行方郡栗山郷で800文を領し、後、鹿島三郎成幹(鹿島氏の祖)の随兵となり、天正19年(1591)農に帰す」とあります。天正19年は佐竹氏により鹿島氏ら所謂「南方三十三館」が滅亡した年であり、主君亡き後、鹿島氏の家臣たちの多くは農民となりました。『大野村史』では「これによって推察すれば、(居合の)集落が形成されたのは室町末期から天正19年、鹿行三十三館滅亡のころではなかったか」と考察されています。一説には、初めは字居合山周辺に住居があり、後に北浦湖岸に下ったともいいます。居合山の南には字「居合間」があります。
​ 参考:佐竹氏の台頭と大掾平氏一族―鹿島氏の敗退とその後

 居合は江戸時代には、中村に属し、旗本知行地でしたが、村つきあいでは居合村を称し、一村として独立していました。鹿島の祭頭祭でも居合村として囃しました。現在も「居合」は祭頭祭の当番字として北郷24字の中に入っています。
​ 参考:鹿島の祭頭祭

生産と流通

農業

 中は市内きっての稲作地で、一戸当たりの耕作面積も多く、「中村千石」と言われました。『常陸国鹿島郡惣郷高目録(「鹿島惣大行事家文書」)』によれば、石高1880石7斗5升1合で、鹿島宮中に続く大村でした。

漁業

 漁業は北浦の操業で、漁法として、張り網、刺し網、掛け網、こませ曳き、おだ漁、ずうけ、延網、大徳網、笹びたしなどがありましたが、地先は水上交通に支障をきたす漁法は禁止されていました。
 水産加工業としては、川海老やゴロの佃煮、ワカサギの煮干しなどが近世に始まったといいます。

醸造業

 江戸時代中期から酒、醤油の醸造が始まり、明治時代には特に盛んでした。また清酒の醸造は、10石から20石ほどの小規模な醸造家が、明治末から大正期にかけて、旧大野村内に十数件ありました。明治31年(1898)に自家用の濁り酒は廃止されましたが、醤油はその後も認められていたので、自家用と小規模醸造は数多くありました。
 旧大野村での古い醸造家は、中村の権兵衛と同じく倉川勘兵衛で、寛政6年(1794)に醤油・酒蔵を建てたと記録があります。これらの清酒は、おおむね近隣郷村の需要を満たすものでした。醤油も同様の需要で、小麦や大豆との現物交換も行われたといいます。

水上交通

 江戸時代の北浦の河岸は、物資の集散地であり、重要な水上輸送の基地として栄えました。米(年貢米)や薪炭、海岸集落から運ばれる干鰯を船積みし、北浦湖岸の河岸から、北利根川、横利根川を経て佐原に至り、利根川を遡って新川から江戸に入りました。
 居合の河岸は、中及び角折荒野の海岸地域の物資が搬出されました。河岸問屋は、物資の輸送業のほか、売買や倉庫業も営んでいました。安永3年(1774)の文書によれば、居合地先に、助左衛門河岸と五右衛門河岸があって、生魚・魚粕・干鰯・塩・薪炭・竹芝・米・大大豆・小麦・菜種・酒・醤油等、多くの物資が江戸へ向けて積み出されました。
 明治10年(1877)、内国通運会社が利根川、霞ヶ浦、北浦水系に、外輪型の蒸気船を就航させ、以後、バス路線が整備される昭和初期まで、人々の交通手段として利用されました。明治43年(1910)の『利根川汽船航路案内』によると、居合にも寄港しており、現在の鹿嶋市内では、居合の他に志崎・掛崎(津賀)・大船津が寄港地でした(『鹿島を中心とした交通と運輸(上)』より)。

教育と文化

私塾

小沢塾

 宝憧院境内に、「寛永五年(1628)壬子冬十月、温恭宣長居士、逸華妙幸大姉、筆子中」の墓碑があって、筆子(生徒)の分布は、中村19、棚木村7、小見村3、春秋村5、立原村2、林村2、掛崎村6、居合村4、角折村7、荒野村7、椎木村1、大志崎村1、飯島村(現在の鉾田市)1、宮中村1の総計66名となっています。
 この塾生の通学範囲は、村の瑞雲寺塾(謙播塾)とほぼ同様で、約6kmがその通学圏であったようです。中にも掛崎村に紅一点の「立中みよ」が名を連ねています。女性の地位が低かった江戸時代に、掛崎(現在の大字津賀)から中村までの5kmの道程を、男子塾生に混ざって通学した女性がいたことは特筆すべきことです。

児玉永通塾

 天保年間(1830-43)に開塾されたもので、船徳寺内の墓碑には、医術を業とし、百余人の塾生が学んだことが記述されています。

佐藤塾

 江戸時代以来の伝統的な家塾で、通称「お師匠様」と言われていました。明治年間は、2代目佐藤治右衛門が継ぎ、近郊の多くの子弟を教育しました。佐藤塾は、他に業を営まずに全く専門的な家塾で、それだけ多年にわたり近郷の子弟を教育したので、多数の青少年がこの塾で学んでいました。

栗山寛湖塾

 栗山寛十郎が開塾したもので、40年余に及びました。寛十郎は居合の篤農家に生まれ、幼くして学を好み、小田旭窓や鹿島宮中の松岡塾に学びました。青年時代から組頭や旧中村村会議員を勤め、郷党の信望が厚く、居合小学校の新設に尽力し、学務委員となって教育の振興に努めました。居合小学校は明治14年(1881)に船徳寺内に設立れ、明治17年(1884)中村小学校に統合されました。
 寛十郎は後に家塾を開いて子弟を教育しながら、旧和村連合会議員、旧中野村村会議員などを歴任し、「義は百行の根基である」を信念に、塾生の品格の涵養に努めました。大正14年(1925)、75歳の時に塾生により頌徳碑が建てられています。

珠算出張塾

 井川小左衛門は、出張教授という特殊な塾を経営していました。科目は珠算だけでしたが、農閑期を利用して、自ら塾生の家へ出張し、2日間ずつ泊まり込んで指導を行い、8軒の家を回ると塾を閉じるという方法でした。

学校教育

 明治8年(1875)に宝憧院内設立された中村学舎(中村小学校)は、4年制の尋常小学校で、明治8年文部広報によると、教員は1名で、生徒は男子が40名で女子は0名でした。教科は、読書・算術・習字・書取・作文・復読・問答で、授業料は月に6~7銭でした。明治19年(1886)に尋常小学校が義務化されたものの、実質的にはまだお寺学校で、明治20年(1887)には光明院に移り、本堂を校舎に充てました。その後の明治22年(1889)、中野村の成立によって、中村小学校は中野尋常小学校となり、明治25年(1892)には、中野第一小学校となりました。明治44年(1911)字権現に新校舎が建設され、大正15年(=昭和元年 1926)中野西尋常小学校と改称されました。現在は鹿嶋市立中野西小学校となっています。

文化財と名所・史跡

椿神社

 集落の鎮守社で大字中字宮内に鎮座します。一間社流造の本殿は、慶長以前の建造物と言われ、丸柱太く、床は高く、簡素荘重であって、古い社殿建築の様式を伝えているとされます。
 本殿は、柱の下部など腐朽したため補強されていますが、鹿島神宮奥の宮と共に、市内で最も古い木造建築物です。昭和51年(1976)に椿神社本殿として市指定文化財となりました。

参考文献

大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日 

鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日

祭頭囃保存会『鹿島の祭頭祭』平成16年3月31日

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日


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