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「林」地名の由来と歴史

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記事ID:0075111 更新日:2024年1月4日更新

林(はやし)の地名の由来

 大字林の地名の由来は、『鹿嶋市史 地誌編』によると、「区域が鹿島台地上にあって、多くは雑木林を主とした土地形態であったことから、呼称されて命名されたものと考えられる。」とあります。

林の地図

林の歴史

 大字林は、標高36m~39mの台地と5~7mの低湿地に二分されます。台地の辺縁部で、稲荷谷津の最も奥まった字稲荷からは大野地区でも最も古い縄文時代草創期後半に比定されている撚糸文(よりいともん)土器が出土しています。字大津茂付近の通称「大津茂台地」からもからも縄文時代中期頃の土器が見つかっており、古くから人が住んでいたことが窺えます。
​ 鎌倉時代の『弘安太田文』には、「同宿内林十九丁一段半」とあり、中村郷の内に含まれました。
 鎌倉時代の初期に、常陸大掾氏族の鹿島三郎成幹の第六子・頼幹は、林に城館を構え、林氏を称し(『常陸大掾系図』)、以来室町時代を通じて当地を支配しました。
​ 『常陸国鹿島郡惣郷高目録記録(鹿島惣大行事家文書)』には、
 「一、高四百三十石八斗一升六合 はや 林村」
 とあります。「はや」は林氏の支配地であることを示すもので、他に志崎村・奈良毛村・青塚荒地村(現在の青塚荒井)・角折村を領し、都合950石余りでした。
 参考:常陸大掾平氏と鹿島

 天正19年(1591)、林は佐竹氏の一門である東義久の知行するところとなり、文禄4年(1595)の『中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)』には、
 「三百三十六石二斗五升 はやし」
 とあります。
 参考:佐竹氏の台頭と大掾平氏一族―鹿島氏の敗退とその後

 江戸時代初期には旗本領となり、寛永10年(1633)成立の『鹿島郡中高改帳』によれば、村高は441石余で、大久保・加藤両氏が支配しました。その後、村の一部が麻生藩領となりましたが(『寛文朱印留』)、幕末は旗本5氏の相給地でした(『各村旧高簿』)。

生産と流通

溜め池騒動

 大字林には、多くの井戸があって、深井戸を掘る技術のない頃は、居住地は湧水井戸の近くにありました。これらの井戸は、水田の灌漑用として利用されました。字「稲荷谷(いなりやつ)」は、細長く台地へ入り込んでいる谷ですが、その水源は「水喰井戸(みつくらいいど)」です。この井戸は、台地の道路の近くにあって、四六時中水が枯れることはなかったといわれ、古来通行人馬の水飲み場として、また、稲荷谷の水源として水田を潤していました。
 字「前谷(マエヤツ)」にも「桜井戸」があって、これも貴重な水源でした。台地の南端部には桂山城(林中城)跡がありますが、この城の台地下には字「井戸尻」があって、城の重要な飲料水となり、また台地の西下には「西井戸」があり、飲料水や灌漑用の水源になっていました。
 林の稲荷谷・西井戸などから流出する水は、北浦沿いの奈良毛、その水上の沼尾の水田でも灌漑用水としても利用されていましたが、日照りの際は下流である奈良毛村の水田までは届きませんでした。農業が幹産業だった近世以前、特に米作の出来不出来は人々の暮らしに極めて深刻な影響を及ぼしており、灌漑用水を巡って奈良毛村と上流である中・沼尾村との間に、たびたび水争いが起きていました。
​ 文政7年(1824)には、溜め池新設を巡って奈良毛・中・沼尾・林の四か村の間に紛争が起き、幕府評定所に提訴となり、最終的には中村宝幢院住職の仲裁によりようやく和解する、という騒動が起きました(『為取替申対談議定書之事(小沢公憲家文書)』)。取り決め議定まで十数年を要しており、米作中心の農業形態を端的に物語っている事例です。

坂と通称

 北浦湖岸の水田から大字林の集落へ上がる坂を「鷹山坂」といい、集落から西井戸へ下る坂を「西井戸坂」といいました。また、集落から大字中へ通じる道路の下り坂を「大坂」といい、上り坂は「八蔵坂」または「撥草坂(ばちぐさざか)」と言います。撥草坂の地名は、瑞雲寺三世海梁和尚の命名したものと言われます。

教育と文化

謙播塾

 幕末、瑞雲寺(臨済宗妙心寺派)山内の聴松庵に「謙播塾」が開かれていました。謙播は備前(現在の岡山県)中津の人で、姓は「松本」、名を「租恭」といい、号が謙播でした。寧山大和尚の門人で、京都の趙州院などにいましたが、江戸に出てから、瑞雲寺の長州和尚に請われて林村に来ました。瑞雲寺では、山内の「聴松庵」にいて、長州和尚を補佐するかたわら、近郊在住の子弟を教育しました。村人たちは「謙播さん」と慕いました。慶応4年(明治元年=1868)門人たちによって77歳の寿塔が建てられましたが、その台座に刻まれた門人たちの数は実に百数十人を数えます。林村をはじめ中・棚木・居合・小見・春秋・武井・荒野・角折・青塚・田野辺(以上市内)・上幡木(現在の鉾田市)の12か村から通塾していました。
 近世、市域の寺院はおおむ概ね真言宗であり、禅宗は4か寺ほどに過ぎませんでしたが、宗派を越えた広がりとその門人数は謙播師の学識の深さと人としての魅力を窺わせます。

文化財と名所・史跡

林城跡

 大字林の台地上南東端に字「中城」があって、「桂山城(けいざんじょう)」と呼称された林氏の中世城館跡です。三方が谷津田で、南北両面に谷津が発達して泥田堀となっていました。林氏の居城としては林中城が本拠であろうとされています。現在は集落の居住地になっていますが、この集落内には「美ノ坪」「羽場」「北ノ内」「根山」「庭月」など城郭に関連する地名が散見されます。字「庭月(テイゲツ)」は、月見をしたところと言われていますが、北浦を航行する船の見張り所が置かれていたとも考えられています。
 外城は、大字田野辺に接続する台地の北西端に位置し、三方を水田に囲まれた険阻な台地の先端を利用した砦と見られ、傾斜は急で低地との標高差は30mを越える要害であり、原形をよく保存しています。外城は、中城の付属施設とされ、林氏一族の沼尾氏や田野辺氏の居館との関連性も考えられますが、外城が中城に対して対峙するような配置になっている点や普請技術の違いから、二つの城は別の時期に建てられたとみる説もあります。

現在の林城跡の航空図

 林氏は、天正17年(1589)に林弾正国時が札村(現在の鉾田市)で殺害されて断絶し、林城もその後廃城となりました。
 「林城跡」は昭和57年に市の史跡に指定されています。

鹿嶋市郷土かるた か
「鹿嶋市郷土かるた」より)

瑞雲寺

 大林山と号す。応永年間(1394~1428)の創建と言われ、開山は拙堂朴和尚。
 本堂は別名「法宝堂」と呼ばれ、文化2年(1805)の建立。木造、茅葺き、三間四面の寄棟造りで、前方に一間の向背を出してあります。正面入り口は板唐戸両面開きで、他の三面は板壁。正面と側面に回廊があり、柱は欅(ケヤキ)丸柱。「瑞雲寺法宝堂」は昭和51年に市指定文化財になっています。

参考文献

大野村史編さん委員会『大野村史』昭和54年8月1日 

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日

茨城県教育委員会『茨城県の中世城館 ―茨城県中世城館総合調査報告書―』令和5年3月31日


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