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「小宮作」地名の由来と歴史

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記事ID:0075723 更新日:2024年2月29日更新

小宮作(こみやさく)の地名の由来

 大字小宮作の地名の由来は、『鹿嶋市史 地誌編』によれば「鹿島神宮の造営に関わった工人たちが土着したものと云われ、その地名の由来もここにあるものと考えられる」とあります。
 また、『文化財だより』第9号所収、小野佐一郎「聚楽名孝」*1には次のような考察があります。
 「往古、鹿島神宮の大普請の際に、京都の方から、宮作り棟梁の集団が下向して来て御造営に当り、其の後此の地に留り、住みついた処と伝えられている。因みに、京都付近にその故地があると云はれる。」

■注

*1 鹿島町文化財愛護協会『文化財だより 第9号』昭和56年3月31日

小宮作の地図

小宮作の歴史

 小宮作は北は大字神向寺字中作、大字明石に接し、東は鹿島浦、南は大字下津に隣接し、西は大字宮津台に境します。
 字大川坪などは、沢山からの流出土によると扇状地と、海岸からの飛び砂によってできた微高地に、大川一族が住み着いて、字大川坪・中宿・前宿の集落を構成したと思われます。
 大川坪は、屋敷廻りに水田を作り、余り土で屋敷を少しでも高くするために土盛りしました。中宿・前宿は大川坪が発展して、戸数が多くなった時に組分けしたもので、前宿は前の方に位置するから「前宿」、中宿は大川坪と前宿の中に位置するから「中宿」と命名されました。
 大川坪から鶴居川までの間は湧水に恵まれて、広大な湿地と沼地帯でしたが、「大川ざわ」と鶴居川が「タカボリ」*2を突き破って広い水田を作る基盤となりました。特に湧水の多い地点は、字根岸・上際(ジョウギワ)付近で、中作(仲作)との境にある「大川ざわ」までの水田に給水しています。中作の上手の排水は鶴居川に流出しています。
 小宮作は、水田が多いのが特色で、開拓の中心は水田で、畑地は、菜園畑位に見ていたようです。したがって、畑地が水田に比して少なく、水田にしても、字根岸は下津の水田になっているところもあります。畑地で古いのは、字焼畑・峰畑付近です。「焼畑(ヤケバタケ)」の地名が残されていることは、集落の成立時に、食料確保のために、この付近で焼き畑農業をした名残であるとみるべきでしょう。次いで字焼畑の西側の地区へ畑地の開発が進み、最後に畑地として開墾されたのは、飛地になっている「新田」と「中」です。この頃になると、水田と漁業だけでは生活に困るので、飛地開墾をしたと思われます。
 字後久保では、製塩用の遺構と思しき粘土層が検出されているので、大川坪の人々の塩焚きがここで実施されていたようです。

■注

*2 タカボリ…鹿島の海岸で、汀線に平行してある砂山を「高堀(タカボリ)」といいます。

タカボリの図

生産と流通

 小宮作の水田には、各所からの湧水が見られ、特に上際・根岸からの湧水は豊富で、水田の全面積の半分近くを潤していました。このように、北半分は各所からの湧水で間に合ったので、屋敷田から北へ北へと開田していって、やがて明石境までの水田を入手していきました。ほとんどすべての水田は平坦地のよい水田であり、そのため、畑地は多くを望まず、住吉坂の上の良いところだけを耕作したようです。
 地名の「釜面」という水田は、製塩者に対して与えられた賃金代わりの水田であったと考えられています。また、字「新釜」は、『鹿嶋市史 地誌編』には「塩焚きに新しい釜の必要が生じたので、これまた塩焚きの人々に与えられた製塩場と生活用地であったのではなかろうか」と考察されています。
 小宮作は、山林は少ないものの、その代わりに、水田からの米で薪炭材などを購入するという経済態勢で生活してきたようです。

文化財と名所・史跡

海賢寺

 小宮作には、鹿島宮中・神宮寺末寺の正智院と海蔵院があり、南隣の集落・下津には、同じく神宮寺末寺の普賢院がありましたが、明治43年(1910)3月に両者を合わせて「海賢寺」として小宮作に建立され、現在に至っています。寺域には、江戸時代中期建立といわれる観音堂・不動堂もあります。
 海賢寺にある江戸時代中期作の経机は、市指定文化財になっています。

伝承・伝説

住吉の池

 小宮作集落の西のはずれの台地へ上る「北坂」という坂を上がったところに、住吉神社が集落の鎮守として祀られています。昔、その社の南側に、雨が降ると池のように水が溜まる窪んだところがあって、そこを大池と人々は呼んでいました。ここには大蛇が住んでいて、人々には害を加えませんでしたが、ある日のこと、この大蛇が神栖の「神の池」に移り住んだので、この池の水は干上がってしまったと伝えられています。(『鹿島町史 第2巻』より)

参考文献

  • 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第二巻』昭和49年12月20日 
  • 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日 
  • 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
  • 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
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