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「沼尾」地名の由来と歴史

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記事ID:0073941 更新日:2023年10月26日更新

沼尾(ぬまお)の地名の由来

 沼尾の地名は、『常陸国風土記』に「天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社の三処を併せてすべて香島の天の大神の社」とした沼尾神社が鎮座することに由来します。現在の沼尾神社の付近は、かつて海と繋がる入り江だった田谷沼の東北部にあたる「古沼尾」の集落跡で、縄文早期より人々が住み着き、製鉄も早くから実施され、製瓦も後には導入されていたようです。産業と生活様式の変移につれて、住民は海岸や湖岸に移動し、沼尾神社だけが残りました。
 また、『文化財だより』第9号所収、小野佐一郎「聚楽名孝」*1には次のような考察があります。
 「(沼尾は)田谷沼の、最も奥まった、入りくんだ処で、沼の尾部に当る処という意味でこの名が出来たと云う。始め今の沼尾神社の周辺に、集落を形成していたものが、後に二つに分かれ、一部は海岸地帯に、一部は北浦湖畔に移り住むようになった。そして、この一団は嘗っての故地が忘じ難く、その名称も移し持ってきたものと云う。
 又、沼尾の地は、塚原とも云っている。古い頃から須賀、塚原(田谷、猿田と同様)と呼び慣はされているから、早くは塚原と云はれていたのかも知れない。その塚原とは、台地には、多くの塚が散在していた。(現在も尚多数の塚=古墳が残っている)その様に、塚のある原と云う意味で、地名が生まれたものであろう。」

■注

*1 鹿島町文化財愛護協会『文化財だより 第9号』昭和56年3月31日

沼尾の歴史

 大字沼尾は、標高37mから40mの台地と、北浦湖岸の標高1mから9mの沖積地からなって、台地は畑作と山林に利用され、湖岸部は水田と宅地になっています。集落は標高5mから9mの間と、標高2mの渚という微高地に、直線的に居住しています。谷からの流出土によって、台地の根方と渚とが連結され微高地が形成され、塊状に集落が構成されて、全体的には「エ」字型集落になりました。近世以前は、集落東方台地上に、ほとんどの屋敷があり、当時の屋敷神が塚となって残っています。今でも、この屋敷神に供え物をする家があります。
 集落全体を「沼尾」と言いますが、北半分は「塚原」と呼称され、横断する県道のバス停名も、「沼尾」と「塚原」に分かれています。これは最初からこの地「塚原」に居住していた者と、沼尾神社周辺の「古沼尾」等から移住してきて、南部に多く住み着いた人々によって、一村を形成したことを物語っています。
 小字名を見ると字「山中・萩山・せんごく・南崎」には、塚原古墳群と称する約60基の古墳があり、『常陸国風土記』に記載されている沼尾の社を中心とする字「原」周辺の「古沼尾」に居住していた有力者の墳墓であろうことが考えられます。字「金山」周辺から字「門ノ内」にかけては、金砂神社を祭祀する人々の集落や大宮神社を祭祀する人々の集落と、「塚原館」関係の人々の居住も考えられます。後世、農漁業に専念するようになって湖岸部に集団移動しました。
 中世、鹿島氏族林頼幹(沼尾六郎左衛門)の子・沼尾平太重幹がこの地を治めたといいます。15世紀中頃、塚原土佐守安啓(やすひら)の采地となり、剣聖塚原卜伝高幹を世に出しましたが、数代にして主家鹿島氏の滅亡とともに滅び、一族は采地「塚原」に帰農しました。元禄15年(1702)の石高は441石2斗3升3合。旗本知行地として明治維新を迎えました。

沼尾の地図

生産と流通

 大字沼尾の水田の特色は、北浦湖岸に沿った「流作」と北部の谷津田を「字山中」の台地下まで墾田したことです。流作とは、北浦湖岸の標高1mから渚に至る間の水田で、北浦が平水であれば収穫もありますが、出水があれば減収や収穫皆無になり、水まかせ風まかせの稲作地です。通称「渚」集落下の水田が、「字東政流作・居下流作・石崎流作・鎌田流作」と流作になっています。この間の「御房下」は、河岸に附けられた土地で、河岸と付属施設に利用され、墾田には至りませんでした。
 水田は流作から字「横田・山崎・谷原中・広角・桜田」と北進し、大字林境の谷津田へ至りますが、湧水が少ないため、竜神池や池内池の余り水や大字林地内の大清水・小清水の湧水を、字「一ツ橋・石川・かごす・広角」と分水しながら引水しました。北面する大字中・奈良毛間の広い水田は、大字沼尾で占有していますが、用水は、大字林の前後から流れてくる湧水に頼っていました。
 畑地は、台地上の字「金山・梶内・黒内・前畑・馬坂・門ノ内」等南部に広がります。北部は山林で、塚原古墳群が所在し、大小の円墳や前方後円墳が点在します。
 幹線道路は、大字須賀から集落内を横切り、大字奈良毛に至る現県道と、大字須賀境から通称白旗坂を上り高土坂に至る沼尾の縦貫道と、そのほぼ中間から田野辺を通り塩釜神社・沼尾神社へ至る道が主な道路でした。
 高土坂から下った河岸からは、塩・干鰯・米(年貢廻米)・薪炭・を積み出しました。中でも「五(右)衛門河岸」は、集落周辺からの薪材の問屋河岸として発展しました。

教育と文化

 明治8年(1875)に沼尾村の常福院に沼尾小学校が開校しました。明治11年(1878)3月に沼尾小学校は須賀村の密蔵院に移転し、明治20年(1887)から田谷小学校の分教場となりました。
 明治22年(1889)8月には、田谷小学校の分教場は豊郷尋常小学校となり、明治34年(1901)11月15日に現在の豊郷小学校の場所(須賀)に豊郷尋常小学校の田谷分校を併合した新校舎が落成しました。

文化財と名所・史跡

沼尾神社

 大字沼尾字原に鎮座。鹿島神宮より約1里(4km)北方にあります。
 香取神宮の祭神、経津主命を祀る鹿島神宮の摂社です。鹿島三社参りといって、鹿島神宮から坂戸の社・沼尾の社を詣でることが近年まで盛んに行われました。「鹿島神宮境内附郡家跡」として、昭和61年に国指定史跡になっています。
 鹿島神宮同様、神武元年の創立と伝え、拝殿の神号額は、裂公(徳川斉昭)直筆によるものです。境内地は1600坪。本殿は元和年間(1615~23)の造営とされ、堂々たる社殿でしたが、昭和10年代に破壊され、その後再建されました。拝殿は、水戸徳川家の寄進と言われ、「大宮司家文書」(『鹿島則幸家文書』No.377文書・No.687文書)に、慶応2年(1866)6月28日付で、沼尾神社遷宮にあたっての宮大工と神官の誓詞が収録されているので、このことかと推察されますが、寄進によるものか、自普請によるものかは定かではありません。

沼尾の池

 和銅6年(713)頃編さんされた『常陸国風土記』香島郡の条に次のような一文があります。
 「…其の社の南に郡家あり。北に沼尾の池あり。古老の曰いしく、神世に、天より流れ来し水沼といへり。病有るもの、此の沼の蓮を食えば早く差(い)えて験あり。…」
 沼尾神社の西側崖下にある水田一帯が当時の「沼尾の池」で、蓮根が群生していました。この蓮根は味わいよく、余所の蓮根に優れていて、病気のものが食べると早く治って霊験があったといいます。(参考:「常陸国風土記に記された”鹿嶋”」)
 康元元年(1256)11月5日、藤原光俊朝臣が鹿島詣のついでに、この沼尾神社を参詣した時には、もはや蓮が存在しなかったと『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう)に記されています。
 昭和9年(1934)秋、当時東大農学部教授であった大賀一郎博士が、沼尾の池の旧跡を探訪し、その時案内の者に、「池中2mくらい発掘すれば、当時の蓮の実があるだろう」と話したといいます。大賀博士は、発掘した古代のハスの実を開花させた「オオガハス」で知られます。

鹿嶋市郷土かるた ぬ

(「鹿嶋市郷土かるた」より)

塚原館

 大字沼尾字根山に所在します。館は天然の要害を利用し、空壕や土塁が配置増築されています。
 北浦湖畔の県道の東側にあって、北と西と東は急斜面の崖となり、西側の山裾と県道との間には、集落の一部が並行します。南は台地と接続し、空壕を巡らします。館跡は山林で、北浦を見下ろす景勝の地でもあります。面積は約2反5畝。館跡の中央から西側が4~5m高く、南側は壕と土塁があり、東と北側にも土塁が構築されています。
 鹿島氏族塚原氏の館跡で、戦国時代初期の構築と考えられます。塚原氏は、塚原土佐守安啓(やすひら)を祖とする鹿島氏の旗下で、所領400石と伝えることから、沼尾と塚原の2村が本貫地と思われます。
 天正19年(1591)主家鹿島氏が、佐竹氏のために滅び、一族は本貫地の塚原に帰農しました。

参考文献

  • 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日 
  • 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
  • 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
  • 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
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