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「田谷」・「田谷沼」地名の由来と歴史

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記事ID:0073563 更新日:2023年10月26日更新

田谷(たや)・田谷沼(たやぬま)の地名の由来

 田谷の地名の由来について、『文化財だより』第9号(小野佐一郎「聚楽名孝」)*1には、「田谷は猿田と殆ど一体的な存在で、田谷沼に関連する名前である。田谷沼に面した谷津合いの田という意で、山峡の田と同じである」とあります。
 田谷沼は往時は海の一部で、魚介が豊富に獲れたところでした。丘陵地帯には、縄文時代から古墳時代の住居跡が残っていて、考古的資料を多数提供しています。周辺の田谷・猿田山之上田野辺は、この田谷沼をめぐる集落として関連性が窺えます。

鹿島町田谷沼をめぐる遺跡

■注

*1 鹿島町文化財愛護協会『文化財だより 第9号』昭和56年3月31日

田谷・田谷沼の歴史

 現在の田谷の集落は、​旧鹿島街道(飯沼海道)が出来てから(江戸時代)計画的に屋敷割りをして作ったもので、もとは中台の方に居たという伝承もあります。
 『鹿島町地名考』*2には、次のように田谷の原集落を考察した記述があります(一部省略)。
 「田谷の人々は『中台』から移住したのだと伝承している。中台は『古沼尾』集落の一部とみることができるし、中台とは、『後谷』、『前谷』、『田谷岨』を含むもので、標高40メートルの台地の頭部には、土塁・空壕の防御設備があった。また、田谷岨には、船着き場や倉庫があったと考えられる。蛇行した道路の左右には、30メートルから40メートルの高低差を持つ施設があったようである。この地に居住地・権現社も設けられてあった。中台と『池ノ上』には、住居跡が見られる。(略)『原畑』・『南西野』と『内岨』の一部は、縄文時代後期から土師器・須恵器の時代にかけての集落であり、原畑の南端には笠貫神社が祀られている。細峰台地の先端は、空壕と土塁に守られて『おやま』と称されている。田谷の宝積院(神宮寺門徒)の仏像は、沼尾の寺から移したものと伝承されているから、古沼尾の照明院の仏像であろうかと思われる。以上の点から、田谷の人々は、原畑・中台・古沼尾付近から移住して街村を構成したのである。」
 中台は田谷沼の中央に突出しており、幅と長さをもった台地で、田谷沼や水上交通の基地であった頃には相当繁栄したことが想像されます。
 田谷沼の水位が下がり、港としての機能を失うにつれて、各谷津や台地の近くが墾田されました。『新編常陸国誌』によれば、元禄15年(1702)の石高は196石6斗3升8合とあります。寛延2年(1749)に水田開拓をして、田谷沼新田と称しましたが、水田の点在であり、計画的な干拓ではありませんでした。旗本加藤氏等の知行地として明治維新を迎えます。
 明治40年(1907)、旧波野村の資産家であった神向寺郁之助が私費を投じて、46町5反歩の水田を完成させました。今の小字名と区画は、この時の地名です。(参考:近代の干拓事業

田谷・田谷沼の地図

■注

*2 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日

生産と流通

 田谷は、一般に交通路の整備が遅れるなど、悪路が多く、水田のほとんどが坂下の谷津に点在していたので、運搬に大きな労力を費やしました。
 大方の農家には牛か馬が飼われていて、運送の労働力となっていました。水田耕作は、1戸あたり4・5反程度で、畑作の中心は戦前戦後にかけて養蚕を主体としていましたが、次第に葉煙草の栽培へと転移して行きました。養蚕と煙草は犬猿の仲で、桑の木の近くに、煙草畑があると蚕に影響があるとされて嫌われました。当時の現金収入は、どこでも厳しい経済状況だっただけに貴重でした。澱粉業者の仲買(「芋買い人」)に、サツマイモを売り、養豚・養鶏も現金収入減として普及しました。
 また、「島働き」という田植え・稲刈りに出稼ぎに行く者もいました。穀倉地帯の稲敷郡東村(現在の稲敷市)の農家への、収穫作業労働力の提供です。1週間か2週間の短期間、泊まり込みで稲刈りその他の農作業を手伝いました。これも高収入が得られ、家計を助けたり、小遣いになったりしました。大字田谷には、総じて大きな農家はありませんでしたが、ほとんどが専業農家でした。
 集落を東西に二分する旧鹿島街道(飯沼海道)が、三社参り等で賑わいを見せていた頃、田谷は宿場町として栄えました。その頃、山野家は宿屋、出頭家は醤油造り、東屋が麺屋、大野家が酒造業を営む等、商業的な経営形態を持つ農家もいました。 

教育と文化

 永井良泰は、文政7年(1824)に生まれ、明治35年(1902)に没しました。医師を勤めるかたわら永井塾を興して近隣の若者を教育しました。明治24年(1981)春に、自撰墓誌を書いて石碑にこれを刻みました。大字田谷二十七番屋敷に居住し、地元の人々は、「お師匠様屋敷」と呼びました。
 この永井塾が、明治8年(1875)田谷小学校として開校しました。以後、明治19年(1886)学制改正のため宝積院に移転、同21年(1888)田谷尋常小学校と改称され、分教場を須賀に置きます。翌明治22年(1883)、沼尾小学校と統合して、大字須賀の密蔵院内に豊郷尋常小学校(現在の豊郷小学校)が創立されました。

伝承・伝説

鏡が池

 竜会城(林城とも)の姫と鹿島城の若君とは、相思相愛の仲でしたが、両城は、天正19年(1591)3月、佐竹氏に攻められ落城となりました。姫は悲しさのあまり、夢を天国に馳せて、田谷沼に身を投げたといいます。
 明治時代に神向寺郁之助が田谷沼干拓を進めていた折り、姫の愛用していた鏡が発見されたといいます。神向寺家では、姫の純情を憐れみ、田谷沼干拓地内に弁天社を建て祀りました。

鹿嶋市郷土かるた り

(「鹿嶋市郷土かるた」より。)

参考文献

鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日 

鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日

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