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「猿田」地名の由来と歴史

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記事ID:0073613 更新日:2023年10月26日更新

猿田(さるた・さんだ)の地名の由来

 猿田の地名の由来について、海老原幸『鹿島・行方の歴史地理学的研究』*1の中では、『常陸国風土記』の、「郡の南二十里の浜の里あり。以東の松山の中に、一つの大きな沼あり。寒田(さむた)と謂ふ。四五里ばかりなり。鯉・鮒住めり。之万(しま)・軽野二里に有る所の田、少しく潤へり。」との記述を元に、次のように考察されています。​
 「『寒田の沼』は今の『神の池』(現在の神栖市)であり、その以北を『寒田の里』と呼んだ。寒田の里の北の境界は、『猿田山』(飯沼海道沿いで北隣は旧大野村の小山)を含む『古沼尾』から、西に行っては『小清水』を下り『大清水』と合体して流れる川を境にしたようである。『寒田の里』とは、(旧)鹿島町のの範囲であったようである。『猿田』は、この地方の人々は『サンダ』と言っているから、猿田集落の正しい名称は、『サンダ』である。『サンダ』は『寒田』の『む』が『ん』に変わって、『サンタ』が『サンダ』となったので、寒田の里の貴重な文化遺産である。」(*1より抜粋)
 また、別説では、地理上の考察もあります。『文化財だより』第9号所収、小野佐一郎「聚楽名孝」*2には次のような考察があります。
 「猿田(サンダ)は、発音通りいけば山田(サンダ)である。後世、田谷沼が近代的な干拓をされる前は、沼の周辺は、湿田ながら耕作されていたものと思われる。それらに対して、丘の裾の部分、即ち山合いの部分を「山田(サンダ)」と呼んだのではあるまいか。」

■注

*1 海老原幸先生著作集刊行委員会『鹿島・行方の歴史地理学的研究』平成5年9月21日

*2 鹿島町文化財愛護協会『文化財だより 第9号』昭和56年3月31日

猿田の歴史

 猿田は標高37m~38mの台地で、北は田谷と隣接し、西に伸びた舌状台地が「坂戸神社」のある山之上です。したがって、猿田は「沼尾社」と「坂戸社」の中間にあり、西に入江が深く入り込んでおり、東は広い原野が海に続いています。
 大字清水にあった「猿田山」(サンダヤマ)は、古沼尾と隣接していました。かつてはこの地域が猿田の本拠地で栄えていましたが、古沼尾が分散移転する当時、同じように現在地に移転してきたことが考えられます。先祖代々の石碑を担いで、現在地の墓地に運んだという伝承が残っています。
 また、猿田は古墳時代の遺跡が集中し、湧水が豊富だったと考えられます。湧水量の多いところを「寒井」と称し、「字東寒井・西寒井・寒井岨」が地名として現存します。寒井から出る水は、神聖な水と伝承されています。
 『新編常陸国誌』に「正保(1644~47)以降田谷村ヨリ分レテ一村トナル、神向寺、田谷、山之上三村ノ間ニ夾リテ、本郷・新田ノ三地ヲ有ス[又ホタテト云ウ所アリ、弘安太田文、南條中村内保立トアルモノ是ナリト云フ]」とあって、鎌倉時代には大字内に集落が構成されていたことが窺われます。
 元禄15年(1702)の石高185石8斗2升2合。旗本加藤氏の知行地として明治維新を迎えます。

猿田の地図

生産と流通

 猿田は、純農地区で、陸稲と麦を主生産物として、代々農業に従事してきましたが、水田は狭あいな耕地が重なっていて、零細な規模でした。
 昭和32年頃から、澱粉工場がにわかに脚光を浴び、鹿嶋市域は海岸部も湖岸部も、台地上の農地から近距離にあり、排水の面からも工場の立地条件と、サツマイモの収量も見込まれたことから、澱粉工場が海岸部を主に林立し、猿田でも、サツマイモの耕作と出荷が盛んになって、活況を呈しました。農家は、切磋琢磨して、生産技術の向上に努めました。こうして、サツマイモ生産の好景気によって、農家の生活は日一日と豊かになっていきました。住まいも、当時文化住宅と言われたモダンな住居が流行しました。しかし、戦後十年ほどの貧しい時代には、京浜地区へ出稼ぎにいく者もありました。

教育と文化

 明治時代初期、子供たちは、隣接する田谷村にあった寺子屋(永井塾)に通っていました。この塾は田谷小学校となり、後に沼尾小学校と合併し豊郷尋常小学校(現在の豊郷小学校)となりました。裁縫所については、石津きよが、石津源内宅の物置を改造して、3、4年間子女の指導に当たっていました。
 また、女学校へ進学しない子女は、佐原の裁縫所に通いました。

伝承・伝説

十九川の伝説

 いくつかの湧水が一本の小川になって、田んぼの中を流れていました。周辺は深い田んぼがほとんどでした。ある日の事、十九になる美しい娘が、田んぼで植え付け搔き(田の草取り)をしていました。深い田んぼに呑まれたのか、娘は遺体となってその川を流れていきました。田んぼには、娘がかぶっていた笠だけが残されていました。それ以降、村の人たちは、毎年七夕の日になると、牛と馬を真菰(まこも)で編んで作り、それに団子をくわえさせて川に流し、娘の霊を慰めるようになりました。誰云うともなく、この川は「十九川」と呼ばれるようになりました。「十九(ジュウク)」は小字として残されています。

参考文献

鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日 

鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日

鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日

鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日

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