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「須賀」地名の由来と歴史

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記事ID:0073710 更新日:2023年10月26日更新

須賀(すか)の地名の由来

 須賀の地名の由来には、2つの説があります。「すか」は「川水・海水などによって生じた砂地。砂丘。浜すか。」と『広辞苑』にあって、北浦と田谷沼からの砂地にできた集落ということから、「すか」に漢字の「須賀」を当てたと考える説と、『鹿島地名考』*1には、大字須賀字前塚・芝原・水神の3つの字で「州浜」を構成し、この読みが転じて「須賀」になった、とあります。

■注

*1 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日発行

須賀の歴史

 北浦とつながる田谷沼の入り江に形成された集落で、周囲の台地上からの、人々の流入によって構成されています。最初の居住地は、大字田野辺の台地に隣接する字「大門」東部の標高6mから10mの低い台地である「川しま・セキト」でした。大門遺跡からは縄文土器片・土師器片・須恵器片等が発見されています。同じく南側の字「横山」は台地でしたが、日陰のため居住地にはならなかったと考えられます。
 北浦と繋がる海の一部であった田谷沼の水位が下がり、字「前塚」・「芝原」・「水神」が「すか」となると、居住地として利用されるようになります。字「前塚」は高い塚の意味ではなく、水田より高い「すか」の意味です。「すか」に囲まれて、「湾内の湿地」が残されて、水田に墾田されたのが字「内田」です。
 ついで、字「イボタ・セキシタ・コバシ・モトミチ・八反田・小井戸岸」等が墾田されたと考えられます。続いて第二の「すか」となった「あつた・コシマキ・渚」が居住地に利用され始めました。その後、湖岸縁片部である「ウミタ」・「大縄場」が陸地となります。ウミタはいわゆる「浜田」のことです。
 字「広山・中山・砂押・丘ノ上・沢田」の台地は山林で、宮中野古墳群の東部分を成していましたが、鹿島開発に伴い住宅団地として造成されました。

須賀の地図

生産と流通

農業

 集落内の湿地帯は、すべて水田として開発されています。畑地は台地上にあって、屋敷周り掘り下げ田の残土を利用して野菜を作るという湖岸部特有の土地利用が見られます。北部の畑地は、大字沼尾田野辺の畑地に接しているため、開墾を南部の大字宮中との境に求めましたが、急な坂道を上り下りするため、農作業に不便をきたし、山林経営に切り替えたようです。水田への用水は、大字山之上からの坂戸水系に頼りました。本流は水神川となって北浦に注ぎます。現在は、土地改良を行い、本流は、水神川に架けられた送水渠を渡って、配水しながら県道を横断し、「豊郷橋」、「水神橋」を経て北浦へ注ぎます。
 須賀の田畑別耕地面積は、大正3年の『豊郷村村是』(1914)によれば、田の面積は43町6反7畝23歩で344筆、1筆平均6畝歩です。

漁業

 江戸時代における北浦は、那珂川から涸沼を経て、鉾田から江戸に向かう水路として栄えました。総面積は38.7 平方km、周囲68km、最大深度10mの広大な湖です。鯉、鮒、公魚(わかさぎ)、鯰、白魚、せいご、海老等の漁業が行われてきました。
 大徳網漁*2は、須賀地区で明治15年(1882)頃新治郡牛渡村(現在のかすみがうら市)の漁師が使い始めた記録があります。これによって、次第に一般に普及していきました。また、須賀在住の小沼助太郎は、明治35年(1902)から大正元年(1912)にかけて、大徳網漁を操業していたといいます。
 その他、帆引き網漁、おだ捲き、あげおだ、延べ縄漁、たかぼう漁、つくし漁、ずうけ漁、笹浸し漁、さし網漁、どうけ漁等があります。
 終戦直後から昭和26年頃までは、戦時中が休業中だったため大漁の連続でした。その後、各種漁業とも漁業従事者が約2割増加しました。しかし、低労賃や収入の不安定、常陸川水門の完成による魚族の減少、それに水質汚濁による漁獲高の減少などにより、年々漁業従事者は減少していきました。

■注

*2 大徳網漁は、地曳と船曳の2種があり、全ての漁獲に使われていました。約200年ほど前に始まったとされます。片袖180m以上の大徳網を使い、海の地曳網漁のように砂浜のある所では浜に引き上げ、ないところでは船に引き上げます。一隻の従業員(曳子)に12名~15名を必要とする大規模な漁法です。

須賀の河岸

 須賀の河岸は、田谷沼の水運業が不可能になるにつれて、水神社や前塚の辺りに作られ、次に字「ナギサ」の東政河岸、庄左衛門河岸、小沼河岸、田中河岸に移りました。慶応3年(1867)頃の河岸経営は、平左衛門と半右衛門の2軒のようです。須賀の鎮守社である水神社は、内匠家の氏神でもあったと伝えられ、宝永年間(1704~10)に水運の守護神として、東組・峰岸組・前塚組・道祖神組・芝原組・なぎさ組の6組で祀るようになったと「鹿島町史研究第4号『鹿島を中心とした交通と運輸』」に記載されています。

教育と文化

学校教育

 豊郷小学校は、明治8年(1875)に沼尾の常福院と田谷の永井家に小学校が開設されたのが起源です。明治34年(1901)、須賀の現在地に豊郷尋常小学校が建設されました。同校は、校舎竣工の11月15日を創立記念日としています。
 豊郷中学校は、戦後の六・三制の学制変革に伴い、小学校の敷地内に併設されました。水神社の神田が交換分合によって、新設中学校の校庭に提供されました。昭和42年(1967)に鹿島、波野、豊郷の三中学校は統合して鹿島町立鹿島中学校となり、豊郷中学校の校庭は現在の豊郷小学校に引き継がれています。

裁縫所

 現在の豊郷小学校の北端に隣接する家が雑貨屋を営み、主に文房具を販売していましたが、奥の部屋がお針子所になっていて、多数のお針子が裁縫を習いに通っていました。錦織志ゆ江が師匠でした。周囲に裁縫所がなかったので、爪木・田野辺・山之上等からも多数の子女が通っていました。裁縫所は、昭和30年頃まで開所していました。

文化財と名所・史跡

塚原卜伝の墓

 塚原卜伝は、延徳元年(1489)鹿島神宮の座主職・卜部姓吉川家に生まれ、塚原土佐守安幹の養子となりました。少年時代に、鹿島新古流と香取神道流を実父(覚賢)や養父(安幹)、松本備前守から学び、剣の達人としての第一歩を踏み出しました。生涯3回に及ぶ回国修行を通して、足利義輝・義昭、北畠具教等と師弟関係を結んでいます。元亀元年(1571)に、83歳の天寿を全うして没しました。
 その後、甥の吉川晴家に伝えられ、連綿として生家吉川家に伝わった「鹿島新當流」は、その伝書と共に、平成元年(1989)に県指定文化財になりました。
 剣聖塚原卜伝は、大字須賀字峰の梅香寺跡に妻と共に眠っています。「塚原卜伝の墓」は昭和46年に市指定文化財になっています。

鹿嶋市郷土かるた つ

(「鹿嶋市郷土かるた」より)

須賀古墳群

 字惣前(ソウゼン)の舌状台地の先端に構築されており、円墳8基を数えます。この地は、耕作には不向きとされ、山林として利用されてきました。さらに、信仰の地としてきたので、保存状態は良好です。塚の名称は、庚申を祀る庚申塚、愛宕神社を祀る愛宕塚、修験者達が浄界としてきた梵天塚等と称されて、古くから大切にされてきました。

参考文献

  • 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日 
  • 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
  • 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史 第四巻』昭和59年3月31日
  • 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
  • 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
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