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「清水」地名の由来と歴史

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記事ID:0074955 更新日:2023年12月13日更新

清水(しみず)の地名の由来

 鹿島台地の斜面及び台地縁の山林を海岸部一帯では「峯山」と言いますが、この峯山からの豊富な湧水が「清水」の地名の由来となりました。
 『文化財だより』第9号所収、小野佐一郎「聚楽名孝」*1には次のような考察があります。
 「集落の上に連なる峯山は、他の峯よりは、湧水が豊富で、夏でも滾々と湧出する清水は、下の広い田圃を潤ほしている。依って名付けられた名前であろう。」

■注

*1 鹿島町文化財愛護協会『文化財だより 第9号』昭和56年3月31日


清水の地図

清水の歴史

 鹿島台地の斜面及び台地縁の山林を峯山と呼びます。峯山には、汐風に強い、松・椎・タブ・トベラなどの海岸植物が繁茂しており、東北の季節風と潮風を防ぐ「防風潮林」となっています。この林相は、鹿島灘沿岸の特色で、篠竹や茅も混在して、耕作物や構造物を保護育成してきました。
 清水地区の台地の縁からは、湧水が多く、泉となり滝となって流出して、農業用水に飲料水に利用されてきましたが、より重要なことは「高堀(タカボリ)」を造成したことです。湧水が海岸の砂地を次々と潤して、海岸よりの飛砂を防止していたので、砂が次々と堆積して丘となりました。砂丘には湿気があるので、松・トラベ・椿・茅等の各種植物が自生して、砂丘を固定させ「高堀」が補強されました。高堀と台地の間にある湿地帯は、常時水の溜まっている沼地となりました。それが大雨の時に高堀の弱いところを突き破って、流水路が開け、それ以来、沼地の水は滞留することはなくなり、湿地帯となりました。この流水路が字「水流」・字「やしき田」などです。
 清水の人々は、清泉に恵まれて広い水田を開発し、台地上の広い山林原野は、時代毎の燃料源ともなり、農業に転じてからは畑地となりました。

生産と流通

 今の水田が沼地化していた頃の居住地は、海岸の「古屋敷」と台地よりの「初堀」付近で、漁業と製塩を生業に、近くの湿地を開墾して水稲栽培によって食料を確保していました。したがってこの清水地区北側の水田は、「小字」の区画も小面積であるし、自由開墾であったと推定されることから形も不規則です。これに対して、中央から南半分の水田は、移入人口増などによる計画的な開拓であったようで、「小字」の面積は広くなっています。これは、ある時期に、沼尾神社付近やその他から、急に多勢の移住者があったためではないかと考えられています。
 台地に登る坂は、北坂・中坂・南坂と三筋ありますが、南坂は鹿島への通路であり、北坂は沼尾原・田野辺を通って北浦湖岸に出る路線で、中坂は田谷猿田の連絡路でした。しかし、より重要なのは畑地耕作の開拓道路であったことです。
 小面積の小字は、南坂と中坂に集中しており、両道路の中間にある畑地は、比較的広い計画的な開墾が進められています。これらから西に進むにつれ、「外根山荒久」・「出口荒久」・「元アラク」・「山谷荒久」と広い地域が開墾されました。
 荒句・荒久・アラクは「新しく開墾する」という意味で、新たに畑を作る作業を「アラク切り」と言いました。作物は陸稲・ソバ・大豆等を栽培しましたが、新畑の収穫量は少ないため、「鍬下三年」と言って無年貢でした。深く耕しながら堆肥を入れて、畑の土づくりをして数年たつと、「荒句畑」から「新畑」になり、やがて本畑になりました。本畑になっても、土質の関係で差が生じることがあります。
 人口の増加と生業の変化により、旧鹿島街道(飯沼海道)の「猿田山」付近まで原野の開墾が進み、畑作を中心とした農業兼漁業を経て、農業専門になっていきました。畑の主な作物は、そば・大麦・小麦・粟・大豆・小豆・さつまいもなどでした。

教育と文化

 明治時代には野毛塾がありました。塾長野毛太翁(金次郎)が漢籍・国語等を教え、その妻らくが女子を集めて、裁縫・行儀作法等の花嫁修業をさせていました。近隣の子弟が多数集まり、熱心に学んだであろうことは、墓地に立つ墓石からも窺えます。墓石の台座は3段からなり、上2段の台座の4つの側面に、合わせて150余名の塾生の氏名が刻印されており、この塾生たちの浄財によって明治42年12月に建てられたことがわかります。

文化財と名所・史跡

寶蔵院(ほうぞういん)

 清水山寶蔵院と号す。創建ははっきりしませんが、江戸時代中期頃と言われています。鹿嶋市宮中の護国院の筆頭末寺であり、幕末の天狗騒動の折り、護国院の寺宝を縁の下に埋め、後に掘り出して護国院に納めたといいます。
 参考:天狗党-天狗の鹿嶋落ち

 清水地区にはもともとは寶蔵院・蓮蔵院・華蔵院・正等寺と4ヶ寺があったといわれますが、現存しているのは寶蔵院だけです。寶蔵院も昭和63年(1988)に「清水集落センター」となり、集会所を兼ねた寺院として新しく立て直されました。

清水新田(しみずしんでん)

 清水新田は、大字清水地内の鹿島台地上の集落で、明和年間(1764~1771)紀州賀茂下村の岡本三右衛門家がやってきて初めて鍬を入れ、ついで、安永年間(1772~1780)に下総の香取から久保木家がやってきました。また、地元の清水から黒澤家が文政年間(1818~1829)に開拓に出たと云われ、逐次耕地化・宅地化が進みました。現在のように、田谷集落に続いて道路に沿った直線的な、そして槇などの立派な生垣や屋敷林に包まれた集落となったのは、鹿島街道(飯沼海道)が出来てからで、計画的に屋敷造りが行われたようです。

参考文献

  • 鹿島町史編さん委員会『鹿島町史 第三巻』昭和56年3月31日 
  • 鹿島町史刊行委員会事務局『鹿島町史研究三 鹿島地名考』昭和57年3月20日
  • 鹿島町史刊行委員会『鹿島町史研究第四号 鹿島を中心とした交通と運輸(上)』昭和60年3月30日
  • 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日
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